自分の詩について解説することは、野暮だし、恥ずべき事でもある。自己弁護に堕す可能性が高い。そこで(しかし)、自分のメモとして書いておく。
神の意識の中では、過去も未来も無く、すべてが現在である(創造も今現在ここで起きている事實である)。無限者である神にとっては当然のこの事實も、有限者である人間には不思議に思える。有限者人間は、世界事象を時間軸に沿って経験する他に無いのだから。エックハルトはそう言ったはずです。
この事實を前提にしない限り、いくら聖書を読んでも意味が無い。単なる道徳指南書の一例にすぎないことになってしまう。基督抹殺論の幸徳秋水も、聖書の”内容”理解に関しては、残念ながら、その域を脱していなかった。
歷史にしても当然ながら同然のことになる。”われわれ”の過去の経験が現前している。それが歷史である。その意識の前には未来も現前してくる。
詩を書く人の意識は、この神の意識の「まねび」であるとも言える。
従って、詩において、過去の人物(固有名詞)が、「自分の歷史」として現前してくることも、当然の事態である。
それ(詩)をなにか「架空の」「絵空事」としか感じられないとしたら、それは詩を書く人の力量不足か、或いは、文学における時間意識の問題が、現在の詩を読む側において、未成熟(中世以前!)であるかの、どちらかであると思われる。その両方である場合? それこそ喜劇(悲劇)と呼ぶべきだ!
この意味で、詩にとって、「生活」はモチーフにすぎない。「実生活」? 論外だ! 犬にくれてやるがいい!
とはいえ、現在の「生活」にしても、そこには常に過去と未来が「現前」していることは、中世の神秘主義者の助けを借りなくても、日々実感していることではないだろうか?
アンセルムスだったかな? ぼくのなかでマイスター・エックハルトと聖アンセルムスが合体してしまっているかも知れません。聖アンドロギュノス。。。