アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ペラギウス派による原罪の否定「アダムは最初から死すべき者として生まれたのである」

ペラギウスによれば、人間は自由なものとして創造された。
彼は思いのままに善をなすことも、悪をなすこともできる。
この自由は、すなわち神からの自立である。
「人間がそれによって神から自立した意志の自立性とは、罪を犯すことと罪を避けることの可能性から成り立っている」

この自由の喪失は、聖アウグスティヌスによれば原罪の結果であった。
ペラギウス派は逆に「自由」は完全に意志によって規制されるものであるから、人間はそうしようと思えば罪を避けることができると考えたのである。
「人間は罪なくして存在する能力を持つ、とわたしは言う」

だがそうだとすれば原罪は完全に意味を失う。
そしてペラギウス派は原罪をマニ教的結論に導くものとして、完全に放棄する。
アダムがわれわれを毒したといっても、それは単に悪い実例としてである。
靈の不滅性の喪失など、転落にともなう二義的な結果さえ、認めてはならない。
アダムは最初から死すべき者として生まれたのである。
彼の過ちのなにものも、われわれに害毒を流しはしなかった。
「なぜなら、生まれたばかりの子供たちはアダムが罪に堕ちる以前の状態にいるから」

  ☆

この教義は、カルタゴ会議(四一八年四月二十九日)において決定された九つの非難すべき点に要約されている。 

一般的に言って、彼の教義は人間に信頼をおき、神の意志による説明に反するものである。
それはまた人間の本性と独立を信ずることである。
多くの点で、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」という聖パウロの叫びを痛切に感じた者を腹立たせるにちがいない。

だが、それよりもさらに重大な結果を生じることになる。
アダムの転落が否定されれば、「贖罪」は意味を失う。
恩寵は許しであって、保護ではない。
特にそれは神に対して人間の独立を宣し、キリスト教の根底にある創造者への欲求を否定するものである。

  ☆

このような思想に対し、聖アウグスティヌスはいくつかの主張によって自己の説を完全なものにする。
アダムは不死の生命を持っていた。
アダムは「罪を犯さないでいる能力」をもっていた点において自由であり、すでに一種の神の恩寵に浴していた。
原罪がこの幸福な状態を破壊することになった。
聖書はこの点に関して明白であり、
アウグスティヌスはそこに論拠を求める。
われわれの本性は汚されている、そして洗礼を受けなければ人間は地獄に堕ちるべく運命づけられている(「聖ヨハネによる福音書購解」二の五四による)。
アウグスティヌスは、世界全体の荒廃と人間の条件の悲惨さのうちにその一つの証拠を見、その情景を徹底的に描き出す。

だが、そうしたことは原罪の二義的な結果にすぎない。
他のより内的な取り返しのつかぬ結果が、われわれの不幸の深さを教えてくれるだろう。
われわれはまず第一に、「罪を犯さないでいられる」自由を失ったのである。

われわれは神の恩寵によって生きている。
他方、地獄に堕ちることは原理として普遍的なものである。
人類全体が地獄の焔に焼かれるべく定められている。
人類の唯一の希望は神の慈悲である。
そこからもうひとつの結果が生じる。
洗礼を受けずに死んだ子供の地獄堕ちである。

ここにおいて恩寵は絶対的なものとなる。
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いずれにせよ、われわれの運命全体を規制するのは、「救靈予定(プレデステイナシオン)」である。
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われわれの自発性は神の全能の内部においてしか働かない。

アルベール・カミュキリスト教形而上学ネオプラトニズム」第四章「第二の啓示」B「聖アウグスティヌスにおけるヘレニズムとキリスト教