アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

”それ”が地上的世界の目的のために役立たないことは明らかである。従って超地上的世界が存在しなければならない。(フィヒテ)

・・・
否、私は生きかつ存在している限り、道徳法則の声に服従することを拒むつもりはない。私はただそれが命ずるがゆえにそれに服従するのだ。この決意は私の精神における第一のもの、最高のものであり、他の一切はこれに従うものであるが、これ自身は他のいかなるものにも従わず、また依存しないのだ。

この決意は私の精神的内奥の原理なのだ。・・・もし私に服従を命ずるものが、本当に私の本質を形成する理性であって、それ自身捏造された、もしくはどこからか投げられた妄想であるべきではないとするならば、この服従はやはり何かの結果を持たなければならない、

また何らかの或るものに役立たなければならない。それが地上的世界の目的のために役立たないことは明らかである。従って超地上的世界が存在しなければならない、そしてこの世界の目的のためにそれは役立つのである。

   ☆

眩惑の霧が私の目から消える。
私はこの新しい器官を得る。
一つの新しい世界がこの器官において私に出現する。
それはただ理性命令によって私に出現し、
私の精神においてこれとだけ結びついている。
私はこの世界を把握する、
 ー 私は私の感性的見方によって制限されて、名づけることのできないものをこのように名づけなければならないであろう、ー
私はこの世界を、
私の服従が持たねばならない目的においてのみ、
また、
この目的の下においてのみ把握する。
この世界は私の理性が命令につけ加えるこの必然的目的自身以外の全く何ものでもない。

この法則が感性に対して考えられており、
この法則が要求する服従の全目的は感性界のうちに存在するということを、
ほかの一切のことは措くとしても、
どうして私は信ずることができようか。
というのはこの服従においてひとえに重要な事柄は、
感性界一般において何の役にも立たず、
決して原因とはならず、
結果も持ち得ないからである。

物質的因果の連鎖によって進行する感性界においては、
生ずるものがその前に生起したものに依拠している感性界においては、
或る行動がどのように、
いかなる意図と心情をもって企てられるか、
ということは決して重要ではない。
重要なのはただこの行動がいかなるものであるか、
ということである。

   ☆

もしもわれわれ人類の地上の状態を産み出すことがわれわれの現存在の全意図であるとするならば、
そのために必要なのはただわれわれの外的行為作用を決定する誤りのない機制だけであるということになるであろう。
また、
われわれは機械全体に適合した歯車以上の何ものかである必要はないであろう。

この場合には自由は単に無益であるというだけではなくて、
反目的的ですらあるであろう。

善意志は全く無用となろう。
世界はこの上なくまずく造られていて、
無駄に遠廻りをしてその目標に向かうことになろう。

汝、
強大なる世界精神よ、
汝の計画に適合させるのに苦労しなければならず、
そのためにほかの準備も必要とするところのこの自由などは、
むしろわれわれから取り上げて、
われわれが汝の計画のために行為すべきように行為するように、
われわれをいきなり強制してくれればよかったのに。
そうすれば汝は最短距離を通って目標に達するであろうに。
汝の世界の住人のうちで最もとるに足らぬ者でさえ、
汝にこう言うのである。

 ー しかし私は自由である。
それゆえ、
そのうちでは自由派絶対に無用であり無目的的であるこのような因果連関は私の善使命を汲み尽くすことができない。

私は自由であるべきである。
なんとなれば機械的に産み出された行動ではなくて、
ただ命令に基づく、
全くいかなる目的に基づくのでもない、
自由の自由なる決定、
 ー このように良心の内なる声はいうのである ー
これのみがわれわれの真の価値を成すからである。

法則が私を縛る紐は、
生ける虗藭を縛る紐である。

法則は死せる機制を支配することを蔑み、
生けるもの、
自己活動的なものにのみ向かうのである。
このような服従をそれは要求するのである。
この服従は無用ではあり得ない。

フィヒテ「人間の使命」第三巻「宗教」第三章「地上的世界と超地上的世界」