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これによって永遠の世界はより明るく私の前に出現する。
その秩序の根本法則は私の虗藭の目の前に明瞭である。
永遠の世界においてはただ意志のみが、
この意志は私の心の隠れたる暗闇にあってあらゆる死すべき目には閉ざされているが、
見えざる虗藭の国全体を貫く諸結果の連鎖の第一項である。
それはちょうど、
地上の世界において行動が、
物質の或る運動が、
物質の全体系を貫流する物質的連鎖の第一項となるのと同様である。
意志は理性界の作用するもの、
生けるものである。
それはちょうど、
運動が感性界の作用するもの、
生けるものであるのと同様である。
私は二つの真っ向から対立する世界の中点に立っている。
一つは見える世界で、
この世界では行動が決定する。
もうひとつは見えざる、
全く理解不可能な世界で、
この世界では意志が決定する。
私は両世界に対する諸根源力のうちの一つである。
私の意志は両者を把握するものである。
この意志は既にそれ自身で超感性的世界の構成要素である。
私がこの意志を何らかの決意によって動かすように、
私はこの世界において或るものを動かし、
変化させる。
すると私の作用性は全体に伝わり、
新しいもの、
永遠に持續するものを産み出す。
このものは現に現存しており、
もはや作られる必要がないものである。
意志は物質的行為となって出現する。
この行動は感性界に属し、
そこにおいてそれが産み出しうるものを産み出す。
☆
私は地上的世界の連関から引き裂かれて後にはじめて超地上的世界に入ることを得るであろう、というのではない。
私は既に今そのうちに在り、生きているのである。
地上的世界よりも遙かに眞實に在りかつ生きているのである。
既に今それは私の唯一確固たる立脚点なのである。
そして私が既にずっと以前から所有してきた永遠的生は、
私が地上的生をなお続けることができる唯一の根拠である。
天国と呼ばれるものは墓の彼方にあるのではない。
それは既にここに、
われわれの自然の周囲に拡がっているのであり、
その光はあらゆる純粋な心に出現するのである。
私の意志は私のものである。
それは全く私のものであり、
完全に私に依存している唯一のものである。
そしてそれによって私は既に今自由と自己自身による理性的活動の国の市民なのである。
☆
また、
たとい私が私の地上的生全体によってこの世界における善を一筋の髪の毛の幅ほどにも前進させないように見えようとも、
私はこの生を断念してはならない。
私はいかなる失敗の歩みの後にも、
今度こそは成功するかも知れないと信じなければならない。
いかなる歩みもかの世界に対しては無益ではなかったのである。
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従って私は、
既にここで私の最も本来的な本質と私の最も身近な目的に従って、
ただもう一方の世界に対してのみ、
生きかつ働いているのである。
そしてこのもう一方の世界に対する作用性こそ、
私が全面的に確信している唯一の作用性である。
感性界に対して働きかけるのはただもう一方の世界のためであり、
また私はこの世界に対して少なくとも働きかけることを意欲することなしに、
もう一方の世界に対して全然働きかけることができないためである。
フィヒテ・量義治訳「人間の使命」第三巻「宗教」第三章「地上的世界と超地上的世界」(中公バックス世界の名著「フィヒテ・シェリング」)