アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

地震と死者 #3

インド、スロベニアに出張し、サイトの更新が滞っているうちに、3月11日の大震災に遭った。東北地方に比べれば軽微な被災ではあったが、震災後しばらくの間は、地震でどこか脱臼したような生活が続き、緊迫した福島第一原発事故の行方にも気を取られて、心ここにあらずという状態だった。毎日、テレビの前で、真っ黒な巨大津波に飲み込まれて行く世界を、繰り返し繰り返し、眺め続けた。連日報道され続けた原発事故の進行状況からも目が離せなかった。それもしかし、一週間ばかりのことで、テレビの番組編成も通常に戻り、ガソリン不足もいつの間にか解消され、人々は日常に復帰したが、私にはどこか釈然としない気分が残った。久しぶりに再会する知り合いとは、お互いの無事を喜び合った。しかし、一ヶ月が経過した今でも、未だに余震が終熄せず、ある意味で戦時下のような不安な気持ちが去らない。地震そのものよりも、今はそれによって引き起こされる二重三重の原発事故がおそろしい。放射能に汚染された海のことを考えると、ぼんやりとした不快を感じる。頭が麻痺したようになり、どのような言葉も空しい。それでも震災後の一ヶ月間は、思考を昂揚させることで不安から逃れたかったのか、いつにも増してブログを書き続けた。

震災前に、アーリマン関連の文献のひとつとして、"The interior of the earth - An esoteric study of the subterranean spheres"(地球内部についてー地下世界の秘教的研究)という英語版のアンソロジーを手に入れて、拾い読みしていたのだが、震災後の世界でこの講演録を読む運命になるとは予期していなかった。ここでそのメモを作っておく。

神智学協会ドイツ支部長としての活動初期から人智学者としての晩年に至る講演録より表題に関連するものが選ばれ、1906年4月16日の講演が最も初期に属する。このわずか十日前の4月6日にヴェスピオ火山が噴火し、多くの死者を出した。シュタイナーがこれらの講演で必ず言及していることは、このような自然災害で命を失った人々の霊的な運命である。大きな自然災害によって多くの人命が失われる事件の”霊的な原因”は、人々の個人的なカルマには求められず、民族やグループの集合的なカルマが関係している。大地震・火山の噴火による人命の損失のカルマ的な原因として、シュタイナーが述べていることは、意表を突くものであって、人類が、かつて、太古のレムリア紀、およびアトランティス紀に黒魔術に耽ったことにさかのぼる。黒魔術のひとつの定義は、エゴイズムに基づくテクノロジーである。当時の古代人にとってのテクノロジーがどのようなものであったかは、「アカシャ年代記より」(国書刊行会・高橋巖訳)に詳しい。レムリア大陸も、アトランティス大陸も、黒魔術に耽った報いで、人々とともに水中に没した。実際、教科書的な人類史に背くような証拠が発見されているという話は多く、巨人の骨格や、いわゆるオーパーツの発掘の報告は絶えない。「エゴイズムに基づくテクノロジー」が黒魔術の定義であるとすると、原子力発電も、メンテナンス下請け・ウラン鉱山労働者の被曝、放射性廃棄物と言う厄介な毒物の次世代への負託など、われわれの時代の無自覚なエゴイズムに基づく技術であって、現代の黒魔術と言っても過言ではない。こう考えると、日本列島に五十四基あるという原発とともに日本民族が滅びる可能性について深刻に危惧せざるを得ない。

話を戻そう。このような災害で命を失った人々の多くは、肉体と物質的なるもののはかなさを痛感し、次の生においては、強い霊的衝動と高い精神性の持ち主として生まれてくる。逆に言えば、時代が唯物論的な傾向を強めれば強めるほど、このような霊的指向性の強い人間たちの出現が必要とされるため、地震のような自然災害が絶えなくなる。唯物論の普及と自然災害の間には相関が見られ、敬虔な信仰が支配したヨーロッパ中世には地震や火山の噴火は少なかった。一方、地震が起きた時期に生まれてくる魂たちは、地震の際に地球を支配する影響力により、徹底して唯物論的な人物になる傾向がある。著名な唯物論者の誕生年は大地震のあった年の近傍にあることが多いが、これらの魂は、この機会を選んで生まれてくるのである。シュタイナーは、このような、地球の活動と人間の霊性の関連を、霊的な地球論に基づいて展開するのである。

出口王仁三郎霊界物語における宇宙創生神話と呼ぶべき「天地の剖判」の一節を読んだ後に、ハッブル望遠鏡で撮影された渦巻き星雲のカラー写真を見れば、それはもはや単なる物質的現象とは思えず、人間の日常的思惟を絶した巨大な生き物のように感じられるだろう。機械論的な死物としての宇宙観は、人類の歴史の中ではむしろ例外的なものであって、幻想に過ぎず、本来、太陽も、惑星たちも、生きた霊的存在なのである。それはあなた自身が、今夜のように美しい雨上がりの夜、外に出て月を眺めてみれば、思い当たるに違いない。学校教育は人間をだめにしてしまう。

シュタイナーは、生きている地球がどのように成立し、活動しているのかを、地球内部の構造論として論じ始める。クロアチアの科学者モホロビッチが地震波の伝播速度の不連続面を発見し地球内部構造論の実証的研究が本格的に始まったのが1910年で、本講演はそれに先立つ1906年に行われているが、地殻構造とマントル層、さらに内核外核の存在などに対応する階層的な構造を示しており、その先見性に驚かされる。シュタイナー自身は、科学の領域の知見と人智学的な見解の異同を論じることは無意味だと言う意味のことを述べた場合もある(たとえば「魂について」高橋巖訳・春秋社・2011年)。しかし、もし、シュタイナー自身が現代に生きていたら、当然、現代科学の示す世界像と自身の秘儀参入者としての霊的世界認識の関係を論じるに違いない。

地震や洪水による死者のカルマを(高次の霊的存在との関連において)問うことは、胸が引き裂かれるように辛いことですと断った上で、シュタイナーは、自然災害と死者の関係のカルマ論を展開する。人間は死後、遙か高みの霊的世界において、それぞれのカルマ的な絆に応じて、厳密にグループに分けられる。一方で、当然、このようなグループ分けを超えた関係も存続するのだが。それぞれのグループにおいて、高次のヒエラルキーの霊的存在の助けを得ながら、死者たちは将来に向けての自らのカルマを形成する。実は地上の生活においても、そのような高次の存在たちは、人間のカルマの形成を手伝っている。霊界における死者たちは、地上におけるわれわれの常識的判断とは全く異なる観点から自らのカルマを選ぶ。すなわち、死者たちのなかには、自ら地震の多発する地域を生地として選ぶ者たちがいる。それが未だ精算されていないカルマの成就につながることを知っているからである。地震や火山の噴火による死に至る運命を、自らを完成に導く道として意図して選択するのである。厳しい環境や、辛い運命も、自らの霊的な向上のために自分自身が意図的に選んで生まれてきたのだと言うのは、シュタイナーのカルマ論に一貫する主張であるが、ここでもその原理が貫かれている。もちろん、シュタイナーは、ひとが直面するさまざまな困難を運命として受容する諦念を持てと唱えている訳では無い。それらの困難な運命が、自分自身の霊的な向上のために、高次の存在者の援助の下に自ら企画・意図したものであるとすれば、人生のすべての苦しみ・悲しみの意味が全く違ったものになる。むしろ、困難に対する積極的な態度が生まれてくる。

シュタイナーが示すこのような霊学的知見が、このサイトを訪れてくれた読者にどのような感慨を与えるのか、あるいは、憤慨させてしまうのか、私にはわからない。しかし、今回のような大災害による不慮の死に遭遇した人びとが、人生の不条理感に打ちのめされるだけであったとしたら、シュタイナーは、そのことに対して、秘儀参入者として責任を感じたに違いない。人間の生は、死をも乗り越えたところで、限りなく豊かで意味深いものであることを、告げずにはいられなかったに違いない。