アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

アエラは駄目だ

今回の地震原発事故では、同時代の出来事として、できるかぎり神経を集中して正面から向き合わねばならないと密かに決意した。オーム真理教事件の時には、まるで人ごとのように、ある意味で冷笑的と言ってもいいような態度で過ごしたことを、後になって後悔し、反省したことが大きな理由だ。
シュタイナーが生前、人類は今後繰り返し、繰り返し、大きなカタストロフを経験することになると述べていることを地震の前に知った。確かに、シュタイナーの存命中に第一次世界大戦が勃発し、シュタイナーの死後には、第二次世界大戦があり、広島・長崎への原子爆弾の投下という、最悪の終結を迎えた。私がシュタイナーのこの予見を知ったとき、子供や孫の世代を考えて、漠然とした不安を感じたのだが、呑気に考えていた自分自身が、今回の三位一体のカタストロフに遭遇することになるとは思っていなかった。
今度こそ、この現実に向き合っている、と言っても、救援活動に働くわけでもなく、困っている人々の役にたつようなことをしている訳でもない。ただ、出来るだけ、雑誌を買い込むようにしているのだ。震災、原発事故関連の週刊誌、月刊誌、特集号、等、目につく範囲のものにすぎないが、出来る限り買うようにしている。そして、写真を見たり、記事に目を通したりする。地震の前は、紙媒体の危機が叫ばれ、雑誌が売れなくなって、週刊誌の廃刊が取りざたされていた。しかし、日本の週刊誌は、今回の災害によって、完全に息を吹き返した。今回の震災と原発事故で、先陣を切って事実を報道し始めたのは、フライデー、週刊現代週刊ポスト等の軟派雑誌だった。新聞は全く信用できないという評価が、少なくとも、ネットを見る人の間では定着している。その中で、雑誌作りにも、写真にも、記事自体にも、それに関わる人びとの人間性が正直に出てしまうのが、このような悲劇的な事件だということがよくわかった。フライデーの正義感、週刊新潮の深い哀悼の気持ち、週刊ポストの使命感、週刊現代の危機意識は、それぞれに私には共感できた。岩波の月刊誌「世界」は今月号(生きよう!)と一緒に先月号(TPP特集)も久しぶりに買ったが、巻頭言がさすがにいい文章だった。中国出身の詩人の詩を記事よりも先に載せている。その詩がすばらしい。私は今の日本にこんなにいい詩人がいるとは知らなかった。「世界」は、この詩人の感性を借りることで、理不尽な死を迎えた死者と残された生者の双方に対等に向き合う回路をもった。
アエラ「私たちはどう生きていけばいいのか・27人の証言」も買ってしまった。記事の後半に回された普通の人々の証言が読みたかったのだ。巻頭言は、しかし、誰が書いたものか知らないが、行き届かない人が書いたものだと感じた。死者たちが、家族・友人の大脳皮質が生きている限り、われわれの心の中に生きている、と言う意味の一節がある。唯物論者ではない私のような読者をないがしろにしている。死者たちへの鎮魂の気持ちが逆なでされるような気持ちがする。養老孟司に気を遣ったのか。勝間和代竹中平蔵も入っているのが、今の新自由主義・アメリカ翼賛朝日新聞らしさだ。藤原新也の写真と文章で締めている。これも、焼きが回ったとしか思えない、他人ごとの写真、観念の遊びの文章だった。