アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

2月12日 メモ2(煉獄靖国神社)

山本が煉獄山において出会うべき詩人はだれか? 真っ先に思い浮かぶのはやはり高野悦子だ。彼女は本来地獄にいてしかるべきであるが、キリストの地獄下りにおいて救済された一人なのだ。時代考証? 神の意識においては過去も未来もなく、すべてが現在である、と中世の神学者も述べていたではないか!

昨日、古い『詩学』で山本太郎の”弁明”を読んだ。この世には世間的・物理的な真実以外に、文学的な真実がある。そういう信仰の立場からすると、山本の弁明には文学的な意味での真実が乏しかった。少なくとも生野幸吉のパセティックと言っても過言では無い論証の重みに釣り合うだけの”真実”を持ってはいなかった。山本太郎はすでにいろいろな場所で自己の詩的来歴について語りすぎていて、今更それを言い直すことに倦怠感を感じているのではないかとさえ思えた。

山本が多用・多弁した「神」(という言葉)があまりにも薄っぺらであるという意味の生野幸吉からの批判がこたえたのか、自らの思想的遍歴を言語化しようと努力している。しかし、その説明的な努力が、逆に、山本の神の「薄さ」を明らかにする材料の提供になっているとしか思えなかった。 詩の能力と、何かを言葉で説明する能力は必ずしも一致するわけではない。詩人が達意の論文を書く學者である必要はない。だから山本の弁明のその意味での稚拙さをあげつらっても仕方がない。むしろ、山本太郎がある時代における若者の典型としての”思想遍歴”の凡庸さをもっていたことを自ら吐露したことが重要だった。彼が詩的意匠の斬新さにこだわったわけもそこにあったとしか考えられないからである。思想・内容の凡庸さを形・表現が超えなければならなかった。山本が心底「盗作・剽窃は無かった」と自ら信じていたとすれば、その謎を解く鍵はそこにあったのではないだろうか?

マテリアリズム。そのような「詩」においては、詩の言語も材料にすぎないことになるからだ。あくまでも完成された建築としての詩が立派であることが目的であって、個々のブロック(詩句)は材料にすぎない。そこに固有の名は刻まれていないのである。 作家固有の名は壮大な石造建築として完成された詩にのみ刻まれる。後年の山本の大作志向から考えても、初期作品において既にこのような山本特有のマテリアリズムが(自覚があったかどうかは別としても)存在していたのではなかろうか(彼を蝕んでいたのではなかろうか)? 限りなく一般的な現代病の発症例のひとつだったか。詩における。。。

(生野幸吉の)個々の詩句を個人(モナド)、完成された詩を社会(全体)として見直すと、この構図の痛々しさが今のわれわれには痛烈である。全体主義の犠牲として靖国に祀られる運命を免れた山本(特攻隊員のひとりだった)の詩の構図(思想)としてはどう考えたら良いのかまだよくわからない。

「あのやうに天使は、翼を天に向かつてますぐに張り、抜けかはる鳥毛とは違ふ永遠の羽もて、空の大気を動かす。」
 寿岳文章訳『神曲煉獄篇第二歌』

・・・大田洋子とハイゼンベルグがどうしても対決しなければならないような気もしている。知ることで地獄に墜ちる(物理学の)巨人たち。最終幕。文字通りの巨人たち(人喰い)に全員生きながら喰われて終わる(”進撃の巨人”ではなく”オデュッセイア”の方)。ただひとり二一世紀に帰還する山本太郎。知識に喰い殺される人類の悲劇を再度目撃する。エロヒムが楽園の門を開き、帰って行く裸体の山本太郎。ここで終わる。