アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

来る五月五日子どもの日 上野動物園・脱原発モデへのお誘い






もうすぐ”こどもの日”です。しかし今の日本、安倍独裁政権の下で、こどもの未来には暗雲が立ちこめている。中でもひときわ怪しい”暗雲”、「原発問題」の正体も無理も今では明らかになった。したがってデモや、集会、学習会、啓蒙的映画、イヴェント、種々の反対行動・運動が展開されております。

原発問題」は明らかに、日本の住人たちにとって、『世代を越えて』引き継がれていかざるをえない、重大な、もはや運命的と云っても過言では無い問題です。それは生まれてきたばかりの、そしてこれから生まれてくる者たちの生にのしかかってくる。

原発問題」こそ、こどもたちの問題なのだ。もはや「こどもの日」に、素朴にこどもたちの健やかな成長を願えるのは、単純に政府やマスコミ報道を信じている人たちだけでしょう。「原発問題を知ってしまったわれら」の責任を感じざるを得ません。

一方で、安倍自民独裁政権による、マスコミ籠絡(ろうらく)、教育への介入は、もはやとどまるところを知りません。原発問題も、当然、そのターゲットであって、今後、若い世代が正しい原発に関する現状認識を得る可能性も減るでしょう。そこで、われわれはどうするべきなのか? 

現在、「脱原発運動」を精力的に展開されている方々へのリスペクトを表明した上で、それでも、まだまだ「足りない」ことは明らかです。むしろ、「ニッチ」的な、小さな試みが、もっともっと増えなければという危機感を覚えております。特に、ネットを離れた、「普通の人々」のいる場所で!

 前置きが長くなりました。そのような個人的な思いもあり、自分でも、何かしなければとつねづね愚考しております。「運動・人生の優等生」でも無く、「強者(つわもの)」でも無く、「智者」でも無く、そして「普通の人」ですら無い、自分(そして、われわれ)がすべきこと、したいこととは?

私事ですが、自分は、ツイッタープロフィールに「運動者・思考者」と自称し、その上で、詩を書く習慣があります。日本人には、定型詩(俳句、短歌)の世界が性に合っているらしく、なにかと「定型と結社」の形式に集束するきらいがあるように思える。

しかし、自分は「定型」を、現代の詩虗藭にとっては一種の堕落と感じ、避けています。自由律こそ自分の世界である。「運動」においてもしかり。リスペクトはするが、それだけでは「生命力」が枯渇すると感じる人間です。もっといろいろなやり方があっていいはずだと思う。

とはいえ、定型でも自由律でも、詩が言葉で成りたつという大原則に変わりは無いように、「運動・抵抗・反抗」には共通する大原則があるでしょう。それはなにかは今は問いません。

一席ぶちました。この崇高な理念(笑)も、具体的段階になると、一気にスケールが小さくなる。そういうことで、こどもの日、五月五日に、上野動物園界隈で、「脱原発モデ」を行うつもりです。タイベックス(防護服)姿でアピールし、こどもと大人に、「原発問題」を意識してもらう。

タイベックスはこちらで六着用意しました。ひとつは自分用ですが。また、具体的に告知します。参加予定される方は、まだ時間がありますので、アマゾンなどで、ご自分のタイベックス(\1300程度)をご用意下されば助かります。五月五日、午後一時に西郷さんの銅像下で集合する予定です。

これは過去にも行ったことがあります。こどもの心に、違和感・記憶が残ればいい、大人に「あれはなに?」と尋ねてくれればありがたい。親子などの間に原発問題が少なくとも、話題にあがれば成功だと思う。「普通の人たち」に溶け込むものでは無く、むしろ違和感を喚起するものです。

やってみると、むしろ「楽しい」。しかし、もし自分ひとりでそれをやるとなると、なかなか勇気が必要でしょう。もちろん、脱原発「お散歩デモ」的に、タイベックスは着なくても結構です。ご自由に。小さいハンドマイクも持っていって、素朴なアピールもするつもりです。

ツイッター人口が増える夜にでも告知します。その際は拡散よろしく御願い致します。過去にも経験しましたが、既存の「運動家」の人たちは、こういう有象無象の「運動」には警戒心を持つなり、無視するなりしがちです。それはそうだろう(笑)

これはまったくの余談ですが「反天連」の人と「反米右翼」の人がお互いの人間性を確かめ合う機会になったりするのもいいな。ぼくの楽しい空想(笑)。イデオロギーもクソも無く、ただ(こどもたちが大人になったとき)この厳しい現実と闘えるように祈る大人がいたことを、いつの日か、ふと思い出すことを願って。。。