アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

形而上学的「実在」とは、 それ自体において考察された靈的生命である。 ・・・アルベール・カミュ

世界が美しいのは、
そこになにものかが生きているからである。
だがまた、
なにものかが世界を秩序づけているからである。

世界を活気づける精神、
それは宇宙の靈(プシュケ−)である。

定まった枠のなかにその生を限定する上級の原理、
それが叡智(ヌース)である。

だがある秩序の統一は常にその秩序より上級である。
したがって叡智より上級の第三の原理が存在する。
それがすなわち「一者」(ト・ヘン)である。

逆に考えてみよう。
一でない存在はない。
ところで、
形式とロゴスを持たぬ統一はない。
 ーなぜならロゴスはまさしく統一の原理だからである。

さらに言えば、
靈を持たない存在はない。
なぜならロゴスは靈の必然的行爲だからである。

第一の方向として、
われわれは世界を説明するのに三つの順位を發見したことになる。

第二の方向では、
「自我」の深化の三段階が發見されたことになる。

この二つの運動は偶然的に一致する。

形而上学的「実在」とは、
それ自体において考察された靈的生命である。

一方は認識の対象であり、
他は内的苦行の対象である。
だが対象が偶然一致する場合、
方法も一致する。

知るとはいくぶん「自己の内部より深いところ」に帰ることである。

認識は得られたものではなく、
努力であり、
欲望であり、
一言で言えば創造的進化である。

そこからまた形而上学的原理の神聖な性格が生まれてくる。

「一者」、
「叡智」、
「宇宙靈」は、
第一の者はその十全さにおいて、
後の二つはいわば反映として、
同じ神聖さを表している。

この統一と多様性とがいかにして合致するか。
それが三つの位格の発出(プロセッション)のうちに説明されている。

この発出は世界の純理的解釋の根底に横たわるものであり、
当然それと対応するものが、
自己の起源を求めての靈の運動そのものである回心のうちに見出される。

アルベール・カミュ
キリスト教形而上学ネオプラトニズム、第三章 神秘的理性、 一 プロティノスの解決」
滝田文彦訳