プロティノス的「理性」はすでにある程度までパスカルの《心情》である。
だが、
だからと言ってプロティノス的理性はキリスト教思想に近いものだと言うのではない。
なぜならこの「理性」は瞑想に基礎をおいているという意味で、
美学の領域に属するものだからである。
プロティノスの哲學は宗教的思想であるとともに、
一つの藝術家的なものの見方である。
事物が説明されるのは、
事物が美しいからである。
だが藝術家が世界を前にして捉えられるこの極度の感動を、
プロティノスは叡智的世界のうちに持ち込む。
彼は自然を犠牲にして宇宙を賛美する。
「この地上に天上からやって来るすべての物は、
上級の世界においてはさら美しい」
プロティノスの求めるのは物の外見ではない、
むしろその失われた天國である物の裏側である。
そして賢人の孤独な祖國に対し、
地上のあらゆる物は生きた追憶となるのである。
プロティノスが知性を官能的に描く理由もそこにある。
彼の「理性」はあたかも水と光の混合のごとく、
生き生きとして豊かで、
感動的である、
ー「・・・・自らのうちに他のあらゆる特質を備えている唯一の特質のごとく。
同時に香りでもある一つの美味のごとく。
その味わいのうちでは酒の風味が、
他のあらゆる風味と色に合体するだろう。
それは触覚によって知覚されたあらゆる特質、
そしてまた耳により知覚されたあらゆる特質を備えている。
なぜなら理性は完全な調和であり、
リズムであるからだ」
そうしたわけでプロティノスは、
自己の感覚をもって叡智的なものを捉えるのである。
アルベール・カミュ
「キリスト教形而上学とネオプラトニズム、第三章 神秘的理性、 一 プロティノスの解決」
滝田文彦訳
「むしろその失われた天國である物の裏側」 カミュ「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」滝田文彦訳
http://t.co/T4Dr7Fna9J 感覚と叡智に関するカミュ氏の犯罪教唆はここに始まる?
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 1