正義自体は一般に形式のうちにあらわれます。
自然法とか自然状態における正義といったいいかたがありますが、
そのような自然状態を想定するのははっきりいって倫理的にばかげたことです。
普遍的なものをとらえない人びとは、
そのもの自体を自然のものと見なしますが、
それは精神が必然的にうみだしたものを生得の観念とみなすようなものです。
自然的なものはむしろ精神によって破棄さるべきものであり、
自然状態とか自然法とかいわれるものは、
精神の目から見れば、
絶対的な不法にすぎません。
国家こそが実在の精神なのです。
いまだ実現されない単純な概念としての精神は抽象的な潜在状態であり、
潜在状態としてのこの概念は、
いうまでもなく、
精神の現実の構築にさきだつものです。
自然状態としてとらえられるのは、
この潜在状態です。
わたしたちは自然状態という虚構を出発点にすることがよくありますが、
それは、
いうまでもなく、
精神ないし理性的意思の状態ではなく、
動物たちの相互の状態です。
ホッブスがみごとにいったように、
万人の万人にたいするたたかいが真の自然状態です。
精神の概念が実現していないこの潜在状態は、
個々人のありかたでもあって、
個としての人間は自然状態にあるといえる。
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ところが、
人びとが常識にしたがって共同体と個人をわけるとき、
個人はあるのままのすがたで完全無欠なものとされる。
共同体が真の個人をつくり個人の本質をなすのではなくて、
個人にそなわった資質こそがもっとも重要だとされる。
自然状態の虚構は、
個々の人格とその自由意思と自由意思にもとづく他の人格との関係を出発点とする。
自然の法とよばれるのは、
個人のもとにおける個人のための法であり、
社会や国家の状態は、
根本目的たる個々の人格のためのたんなる手段としかみとめられないのです。
プラトンは逆に、
共同体的なもの、
公的なものを根本におき、
個人そのものはまさにこの共同体的なものを目的とし、
生きがいとし、
精神とすると考える。
個人は国家のために意志し行動し享受するので、
国家は個人の第二の自然であり、
習慣であり、
倫理なのです。
個人の精神、
生命、
本質をなし、
現実の基盤となる共同体が、
生き生きとした有機的全体として体系化されるのは、
それがさまざまな部分に本質的に文化し、
それぞれの部分の活動が全体をうみだすようなはたらきをするからです。
概念と現実とのこの関係をむろんプラトンは意識していたわけではない。
まず絶対的な理念があり、
つぎに理念そのもののうちに実現の必要があらわれ、
実際に実現の過程があらわれるといった哲学的な構築がプラトンのもとに見られるわけではありません。
(長谷川宏訳 ヘーゲル”哲学史講義・中” 河出書房新社 1994年2月20日再版)
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ソクラテスにおける時代に先んじた自己意識>民族意識の描き方と、プラトンにおける国家精神と個人の関係の描き方に感じる逆断層みたいなもの。