アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ヘーゲル”哲学史講義” A.プラトンの哲学  三.精神の哲学 ”自由と精神の実在としての法と国家”

法とは自由の実在であり、
自己意識の現実性であり、
精神の現実面ないし現実の働きです。

国家とは、
その法を客観的に実現したものです。

法は、
精神が自分の内部や自分のもとにあって、
自分に形をあたえようと活動するところにうまれる、
 ー つまり、
   自由が客観的な存在となったものです。

ある物件がわたしのものだというのは、 
わたしの自由がこの外的な物件のうちにおかれているということです。

精神は一面では認識のはたらきですが、
他面では意思のはたらきであり、
存在をもとうとするものです。

精神が自分を一個人として知るのではなく、
精神の全体として存在する場が、
国家です。

というのも、
自由で理性的な意思がどうあるべきかを確定するのが自由の法律なのですが、
この法律はまさに国家の法律としてあり、
国家こそが理性的な意思の現実のすがただからです。

したがって、
国家のなかで法律は効力をもち、
国家の慣習や秩序をささえもしますが、
国家のもとに恣意が直接にあらわれることもあって、
そのときには法律は同時に恣意をおさえこむ権力たらざるをえない。

裁判権統治権がそれです。

これが国家の本質というもので、
理性の本能にしたがって国家はこのような特質を堅持し、
こうして正義の特質を示すことにもなります。

長谷川宏訳 ヘーゲル哲学史講義・中” 河出書房新社 1994年2月20日再版)






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