プラトンはこの神のごとき世界を
「思考のうちにのみあっていつまでもかわることのない模範」
とも名づけています。
かれはこの全体のうちにまたしても対立を持ち込み、
「第二のものは第一のものの模造であり、
生成してきた目に見える世界である」、
とする。
第二のものは天体の運動体系であり、
第一のものが永遠の生命です。
「生成や変化のあるものは第一の永遠なる理念に完全におなじものになるのは不可能である。
が、
それは永遠なるものを統一的にあらわす運動の像とはなりうるので、
数であらわされるような運動をするこの永遠なる像が、
時間と名づけられるものである。」
「あったことやあるだろうことをわれわれは時間の部分と名づけ、
時間という絶対的実在のうちに運動上の変化をともなうちがいをもちこもうとする。
本当の時間は永遠であり、
現在である。
なぜなら、
実体は古くも新しくもなく、
永遠なるものの直接の像としての時間は、
未来や過去という部分をもつものではないのだから。」
時間は空間と同じく観念的なものであり、
精神が対象的にあらわれたものである。
空間や時間は感覚的なものではなく、
精神が対象として直接にあらわれたすがたであり、
いわば感覚的な非感覚体である。
☆
時間の実在的な側面 ー 時間のうちに絶対的に存在する運動の原理という側面 ー が、
変化のあらわれとされるものです。
「太陽と月と五つの惑星は、
数であらわされる時間の比を定義し維持(保存)するのに役立つものである。」
それらのうちに時間の数が実現されている。
だからこそ、
天体の運動(真の時間)は、
統一をたもち、
かわることのない永遠なるものの像なのです。
というのも、
天体の運動にあっては一切が時間のうちで否定的に統一され、
自分だけ自由に、
また、
偶然にまかせて動いたり、
動かされたりするものはないからです。
☆
しかし、
この永遠なるものは、
変化し迷走する原理というべつの場面にもあらわれるので、
その場面を一般化していうと、
それが物質というものです。
永遠の世界は時間に属する世界のうちに反映するとともに、
それと対立する第二の世界 ー 変化を本質とする世界 ー
にも反映します。
以前には、
自己同一と他なるものはまったく抽象的に対立していましたが、
永遠の世界が時間のうちにおかれると、
そこに自己同一の形式と変化迷走の形式との二形式があらわれる。
この原理(領域)のうちにあらわれる三つの側面とは、
(α)うみだされた単純な実在、
「生じてきたもの」(特定の物質)
(β)「生成の行われる場所」
(γ)「生成物がそれを模範として生成してくるその原型」
です。
プラトンはこの三つを
「実在、
場所、
産出」
ともいっていて、
ここに実在とは、
産出の際の養分ないし実体のことです。
整理すると、
(α)一般的な実在、
(β)中間項としての場所(空間)
(γ)個別的なものとしての個々の産出、
となります。
この原理を時間という観点からその否定的な作用と対比しつつ見ていくと、
存在という単純な契機 ー 一般的な他の原理 ー
が「ものをうけとめる」媒体となり、
一切をうけいれた上で、
自立自生へと養育する「乳母のような」実在となっています。
形式をもたないこの原理は、
一切の形式をうけいれるもので、
さまざまにあらわれる一切の現象の一般的実在です。
それは物質ということばを聞いたときわたしたちが思い浮かべる、
まったく受動的な物質です。
物質はここでは相対的な実体、
実在一般、
外的な実在であり、
抽象的にただあるものにすぎない。
観念的には、
この物質とその形態とは区別されるので、
プラトンによれば、
乳母によってはじめて形式があたえられる。
現象とよばれるものは、
この原理の一部をなすので、
というのも、
物質とは個々の産出の素材を提供し、
そこに分裂が生じるからです。
が、
ここにあらわれるのは、
地上の個々の実在ではなく、
形のある一般的なものととらえられねばならない。
物質とは一般的なものであり、
あらゆる個物のもとをなすものだから、
プラトンによると、
まず第一に、
ここでは、
火、
水、
土、
空気、
等々(またしても火その他が出てきますが)を考えてはならない。
火その他が特定の性質として持続することになってしまうからです。
実際に持続するのは、
一般的な性質としての火らしさ、
土らしさだけです。