彼は心の中で義を見出した。
わたしの体の内にわたしの魂はあるというよりは、
わたしの体がわたしの魂の内にむしろあるのだといえる。
わたしの体とわたしの魂とは、
それみずからの内にあるというより、
むしろ神のうちにあるのだといえる。
義とは、
真理に於ける一切の事物の原因のことである。
聖アウグスティヌスが語っているように、
魂が魂自身であるよりも、
神は魂にさらに近い。
まことに、
神と魂との近さとは両者の区別も見出せないほどのものである。
神がみずからを認識するときのその同じ認識が、
自由となったおのおのの精神のなす認識なのであり、
これらはけっして別なものではない。
魂はその有を神より直接受け取る。
それゆえ、
魂が魂自身であるよりも、
神は魂にさらに近いのである。
それゆえ、
神は神の全神性をたずさえて魂の根底にいるのである。
☆
ある別の師は、
体の内で働く、
魂の力はすべて体とともに死にゆく、
ただ認識の力と意思の力とは例外である。
つまりこれらだけが魂にとどまるのであると。
体の内で働く諸力は死にゆくが、
それらはしかしながらそれらの根においてたもたれつづけるのである。
☆
聖パウロは、
「あなたがたは、
今は罪から解放されて神の奴隷となる」
(ローマの信徒への手紙六・二二)
と語る。
さて、
しかし主は聖パウロよりもはるかに適切に次のように語る。
「もはや、
わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」
「僕は主人の意思をしらないが、」
しかし友は、
彼の友の知っていることをすべて知っている。
「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
(ヨハネ十五・十五)
そしてわたしの父が知っていることはすべてわたしは知っている。
そしてわたしが知っていることはすべてあなたがたが知っている。
というのもわたしとわたしの父とはひとつの精神を分かち持つからである。
さて、
神が知っているすべてを知る人とは、
神を知っている人である。
このような人は神を自分の固有な有において、
自分の固有な一性において、
自分の固有な現在において、
自分の固有な真理において、
つかむのである。
そのような人にあってはすべてが義とされるのである。
しかし内的事情について少しも習熟していない者は、
神が何であるか知ることがない。
たとえば、
自分の地下室にワインを持っているにもかかわらず、
それを飲んだことも試したこともない男には、
そのワインが上質であるということが分からないようなものである。
無知の内で生きる人たちもこれとかわらない。
これらの人たちは神が何であるか知らず、
自分たちは生きているのだと信じ、
妄想している。
☆
過ぎ去った六日ないし七日前の日々も、
六千年前の日々も、
今日にとっては昨日のように近いものである。
なぜであろうか。
そこでは時間は現なる今においてあるからである。
☆
魂の日と神の日とは区別される。
魂がその本来の日にあるとき、
そこでは魂は時間と空間とを超えて一切の事物を認識する。
どんな事物もそこでは魂に遠くも近くもない。
それゆえに、
一切の事物はこの日にあっては等しく高貴であると言ったのである。
以前に話したことであるが、
神は世界を現在創造しているのであり、
一切の事物はこの日においてはすべて等しく高貴なのである。
神は世界を昨日あるいは明日創造するとわたしたちがもし言うとしたならば、
わたしたちは実に愚かであるといわざるをえない。
神は世界と一切の事物とをひとつの現なる今において創造するのである。
千年前に過ぎ去った時も神には今ある時と同じように現にあるものであり、
近いものなのである。
このひとつの現なる今に立つ魂の内へと父はその独り子を生み、
この同じ誕生において魂は再び神の内に生まれるのである。
これはひとつの誕生である。
魂が神の内でくりかえし生まれるたびごとに、
父はそのつどみずからの独り子を魂の内に生むのである。
ーエックハルト説教集[説教10]”神の根底にまで究めゆく力について”
(シラ書(集会の書)第四十四章第十六節、第十七節)
(田島照久編訳 岩波文庫1990年6月発行)