(彼は、
雲間に耀く明けの明星、
祭のときの満月、
いと高き方の聖所に輝く太陽)
低き師たちは神学校で、
すべての有は十の存在様態(カテゴリー)に分類されるが、
これらはすべて神にあてはまらないと教えている。
この存在様態のいかなるものも神に触れることはないが、
しかし神はこれらのいずれも欠いてはいない。
最高度に有を所有していて、
そのうちで一切の事物がみずからの有を受け取る第一のカテゴリーであるもの、
それは実体である。
そして有を持つことの最も低き最後のカテゴリーは関係とよばれるが、
これは神の内では、
最高度に有を所有する最大のものと等しい。
それらは神の内にあってはひとつの等しい原像をもつのである。
神の内では一切の事物の原像は等しい。
しかしその等しい原像というのは相等しくない事物の原像なのである。
最高の天使も、
魂も、
そして蚊も神の内ではひとつの等しい原像を持つ。
・・・・
さあ、
わたしたちは、
知性の一滴、
知性の「火花」、
知性の「技」を所有する魂の内において、
その認識をあるがままにつかもうではないか。
・・・・
魂の内には、
物を考えるという力がさらにある。
この力は、
現に今ない事物でもみずからの内に思い描くことができるのである。
それゆえに、
わたしはそれらの事物をあたかも目で現に見ているかのように良く認識できるのである。
それどころか、
一輪のバラでさえ冬の只中で考え、
思い浮かべることができるのである。
つまりこの力により魂は非有の内でも働くことができるのであり、
その点において、
非有の内で働く神に倣うのである。
・・・・
創造された言葉というものがある。
それは天使であり、
人間であり、
そして被造物のすべてである。
これとは別な言葉がある。
思惟され、
述べられ、
それによってわたしが何かを思い描くということが可能となるような言葉である。
しかしさらに別な言というものがある。
これは述べられることもなく、
思惟されることもない。
けっして外へと踏みでることもない。
むしろ逆に語る者の内に永遠にとどまるのである。
それは語る父の内にあり、
絶えず受け取られ、
そして内にとどまったままである。
知性とはいつも内に向かって働いているものである。
何であっても、
より繊細にそしてより精神的になるにつれて、
それだけいっそう力強く内に向かって働くものである。
力強く、
繊細に知性がなればなるほど、
知性の認識するものも知性とますます強く合一し一なるものとなる。
しかし物質的事物ではそうはいかない。
物質的なものが力強くなればなるほど、
ますますそれらは外に向かって働く。
神の浄福は知性が内に向かって働くことの内にある。
その際「言」は内にとどまったままである。
自分自身の内で漂うこの認識の内で魂の浄福を造り出すためには、
魂はそこでひとつの「譬え言」でなければならず、
神とともに一なるわざを働かなければならないのである。
つまり神が浄福であるその同じ認識の内にあって。
わたしたちが常のこの「言」のかたわらで一つの「譬え言」であるよう、
父と、
いま述べたこの言と聖霊とがわたしたちを助けてくださるように。
アーメン。
ーエックハルト説教集[説教9]”知性と意思とについて”
(シラ書(集会の書)第五十章第六節、第七節)
(田島照久編訳 岩波文庫1990年6月発行)
☆
三種類の言(ことば)が説かれている。
第一の言は、
語り出された「神の言」であって、
一切の被造物をさしている。
神は語り出すことで世界を創造したからである。
ロゴスによる神の創造論においては、
すべての被造物は語り出された、
神の外なる言である。
第二の言葉とは、
通常の意味の人間言語であり、
思惟の担い手としての言葉、
概念である。
第三の言とは、
語り出された、
神の外なる言の「原像」、
「原型」となる神の内なる言である。
神はこの内なる言によって一切の被造物を在らしめたとされる。
ここにはプラトンのイデアと個物の関係、
すなわち範型論のキリスト教的受容が認められる。
(田島照久氏による訳注(25)より)
☆
エックハルト「冬の只中の一輪のバラ 非有の内で働く魂の力は神に倣う」d.hatena.ne.jp/longtonelongto… シュタイナーが、現代に、より具体的に蘇らせようと努力した内容そのものに思えます。エックハルトによるプラトニックな基督教神学は人智学的瞑想法を思い起こさせもします。
— armchair anthroposopさん (@longtonelongton) 2013年4月14日