— 机 —
知り合いの青年が
廃屋になった洋館の奥に
大きな書き物机を見つけて
私に要らないかと言って来た
彼は本来音楽家らしいが
食うために解体業をやっている
私が良い机を欲しがっていたことを覚えていてくれたのだ
その机はいつのものなのか
どのような人物が使っていたのか
ともかく年代物で
古い言葉だが
「舶来品」とでも言うほか無い
そこはかとない気品が感じられたし
その玄武岩の岩盤のような安定感は
砦か要塞のように
痛んだ私の神経を外界から護ってくれそうに思えた
初めの頃
抽斗の抵抗感は滑りの悪さのせいだと思っていたが
あるとき微妙な違和感を感じて
すっかり引き抜いて調べてみると
案の定
左右の袖にある四段ずつの抽斗それぞれが二重底になっており
私はこれと言った困難も無く
その底板を外すことができた
中から出てきたのは
夥しい手紙の束で
古風に蝋で封印がしてあり
そのどれひとつをとっても開封された形跡は無かった
開いてみると
それは流麗な独逸語で書かれた文章だった
はじめ私はそれを
旧制高校の生徒の念の入ったいたずらだろうと思ったし
今でもその疑念が消えたわけではない
しかし
それらが
書かれてあるとおりに
ブラームスがクララにあてて書いた手紙だったとして
このドイツ風に頑強な机ごと船に乗り
海を渡り
はるばる時間と空間の荒波を乗り越えて
今私の手元に届いたのだという考えも
あながち捨てたものではないと思うのだ
— 手紙1 —
敬愛するクララへ
つい先日もお話ししましたが
私には未だに音楽がわからないのです
むしろこの歳になって
ますます謎が深まるばかりだと云ってよい
いいですか
音楽なんて
本来
どこにも存在しません
あの物理学者達が言うように
単なる空気の震え
それらの波動の群れにすぎないのです
え?
あなたも彼らを信じている?
なんだか妖怪じみていますよね
むしろ妖精かな
目に見えない空気の振動
夥しい数のその群れが
あのモーツアルトの響きの真実の姿ですって!
彼らは何を得意がっているのか
確かに偉大なものはすべて目に見えないのです
だからといって
それを空気の振動や
分子とか原子とかいう粒子の震えや回転に帰してしまったところで
何がわかったつもりでいるのか
私にはモーツアルトの哄笑が聞こえるようですよ
ごらんなさい
今日も壮大な夕焼けが一日の終わりを告げている
朱に染まる雲の群れ
その高さは夏の終わりを告げています
この時間になると
私にはいつも音楽が聞こえるのです
それを捕まえようと思って
この歳まで生きてきたのだ
いや
また話が嘘くさくなってしまいましたね
どうしてなんだろう
本当のことはいつでも目に見えないし
口にもできないんだ
私がそれを言葉にすると
世界は一瞬で崩壊してしまうんですよ
だから私は音楽家になったんです
本当に詩人じゃなくてよかった!
不思議ですね
私はもうドイツレクイエムを書いたのだ
しかし
いったいこのちっぽけな私の身体のどこに
あの偉大な響きが隠れていたというのでしょう
第一交響曲の悲壮な感情は
いったいどこからやってきたのでしょう?
それはプラトンのいうように
天界のイデアなのか
それとも
古代の哲学者たちが考えたように
宇宙のエーテル的な形成力なのか
ともかく
このちっぽけな私の身体のどこを見渡しても
宇宙の響きは発見できない
いや
そうではないのかも知れません
本当は私たちひとりひとりが
偉大な宇宙なのかもしれないし
それが実感できないからこそ
現代の人間たちが
あのような戯言を言い散らかして
満足しているのかも知れませんね
ああ
今日もだめだった
何度手紙を書いても
同じことなのです
あなたに会って
お話しすること
それはどんなに
素晴らしい体験か!
私は実は今でも
あなたに会う前は緊張しているのです
それを悟られないように
そのことにばかり気を遣っているのです
おかしいでしょう?
もうこの先は書けません
聖域に属する問題だ
この間お会いしたとき
私はあなたの手の形を初めて見たのです
おかしいでしょう
もうこんなに長い間
なんべんもなんべんもお会いしたはずなのに
私はこの間
初めてあなたの手の形をまじまじと見つめることに成功したのです
どきどきしました
こんなに美しい手があるだろうか
白い細長い指だった
あの指から
あなたの繊細な音楽が生まれる
いやそんなことではないのです
私が考えたのはもっと違うことだった
実に華奢な人のはずだったけれど
その肉体を支える骨盤の健全な安定性・・・
ああ
私は何が言いたいんだろう?
いったい此の世に肉体を求めない精神があるでしょうか
それが無ければ
そもそもわれわれは此の世に生まれてはこなかったはずなのです
・・・・・
今
クラリネットソナタを書いています
素晴らしいクラリネット奏者に出会ったのです
今度ご紹介しましょうね
今日はこの辺で
いつまでもあなたの僕である J.B.より