アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

十九世紀後半における科学の躍進を背景とする唯物論的生命論・人間論への楽観的信頼について

そして、無数の仕方で表現される動植物の生命さえも、すべての生物の生命組織が成り立っている複雑な、それ故に又、解体しやすい化学的物体の広範な系列における分子[ないし分子中の原子]の交換にすぎない。

生命とは、きわめて複雑な諸分子の一連の化学的分解と再結合ーつまり、化学的、無機的発酵の影響下に生起する発酵作用の系列にすぎないのだ。

さらにこの同じ年間に、神経系統の細胞の生活過程と刺激を一から他へ伝達する能力が植物及び動物の神経生活における刺激伝達の機械的説明を与えるものであることが理解され、次いで1890ー1900年の間に承認され、証明されるようになった。

これらの研究の結果、われわれは、今や純生理学的観察の領域にとどまり、その枠内で、いかにして心像や一般に印象がわれわれの脳髄に植え付けられ、いかにしてそれらが作用しあい、そして、いかにしてそれらから概念や観念が生起するか、を理解できるのである。

われわれは、こうして今では、「連想」と云うことを、つまり、いかにして新しい印象が古いそれを再生させていくかを理解できる。その結果、われわれは思惟のメカニズム自体をも把握しているのだ。

クロポトキン「近代科学とアナーキズム」五・1856〜1862年における覚醒
  (勝田吉太郎訳・中央公論社・世界の名著42・昭和42年初版)

生命も、人間思惟も、すべて物理化学的過程として説明しうると言う極めて楽観的かつ素朴な唯物論的世界観の一例を、われわれはここに見る。しかし、この世界観が、クロポトキンの政治思想、革命思想の根底にあるのだとすれば、そこから果たして真に「権力」から人間を解放する思想が生じ得るのか。個人の尊厳は、そこからどのようにして導かれ得るのか。そこからは、人類や人間という一般概念は生じ得ても、特殊な個々人の出現はあり得ないのではないか。読み進んでみます。

追記:つまり、人間だけが、個体差がこれほど大きいのはなぜか。世界の個々人ひとりひとりが、全く違うのはなぜか。それは、昆虫や、ほ乳類や、その他の動物等、どれにも見られない、人間だけの著しい特徴です。唯物論的見解は、この「個」の問題にどのように答えるのでしょうか。(2012/08/27)