アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

中江藤樹に見る個人・道徳・社会の根拠としての太虚(エーテル)とその身体化(エーテル体): 大日本三千年紀研究會のためのコラージュ集17

  體充曰(たいじゅういわく)、
今までは親をよく養ふをのみ孝行なりと思へり。
あまねく世俗さやうに心得たると見えたり。
いま先生の教へを聞けば、孝といへるものは、外もなく内もなき無上の妙理なり。
守行ふべき術(じゅつ)をくはしく承りたく候(そうろう)。

  師翁曰(しおきないわく)、
元来考は太虚をもって全体として、
萬却(まんごふ)を経ても終わりなくまた始めなし、
孝のなき時なく、孝のなき者なし、

全考図説には、
太虚を考の體段と成して、
天地万物をそのうちの萠芳としたり。

かくの如く廣大無辺なれば、
萬事萬物のうちに孝の道理そなはらざるはなし、

就中(なかんづく)人は天地の徳、
萬物の霊なる故に、
人の心と身に考の全體みそなはりたる故により、
身を立て道をおこなふをもって功夫(くふう)の要とす。

身を離れて考な無く孝離れて身無き故に、
身を立て道をおこなふが孝の全體(ぜんたい)なり。
・・・

わが身は父母の身を分けて受け、
父母の身は天地の気をわけて受け、
天地は太虚の気をわけて受けたるものなれば、
本来わが身は太虚神明の分身変化なる故に、
太虚神明の本體をあきらかにして失わざるを以て、身を立つるといふなり。

太虚神明の本體を明めたる身をもって、
人倫にまじわり萬事に応ずるを、
道を行うといふなり。

・・・・

人間(にんげん)千々萬々のまよひ、みな私(わたくし)よりおこれり。
私は我身(わがみ)をわが物と思ふより起これり。
考はその私を破りすつる主人公なる故に、
公徳の本然(ほんぜん)をさとり得ざる時は、
博学多才なりとも眞實(しんじつ)の儒者にあらず、まして愚不肖は禽獣にちかき人なるべし。
・・・・

至理(しり)を知らざる人は、五倫(仁義禮智信)の道といへば皆外にありて、わが心の中になきものなりと思えり。
あさましき事也。
天地萬物みな神明霊光のうちに、生化(しょうか)するものなる故に、
天地萬物皆わが本心孝徳のうちにあるもの也。

・・・・
さとりたる眼(まなこ)には、内外幽明有無の差別無し、
五倫の道を外と見て厭ひすて、
内外幽明有無の二見をたつるは、
さとりに似たる迷ひなり。

    中江藤樹「翁問答」巻之一

神秘思想家としての中江藤樹という視点は、ひょっとすると、戦後の我が国には無いかも知れません。しかし、人智学を学んでいる人間の目で原典を読んでみると、紛れもなく、倫理の根拠としての宇宙的身体論・人間論が展開されていることに気付かされます。そう言う目で眺めると、たとえこれが主流では無かったにせよ、徳川封建制度の下での日本人の思想生活が、急速に身近な、興味深い、自分の問題になってくるのです。