アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

野村英夫の詩が喚起する三つの観点 大日本三千年紀研究會のためのコラージュ集16

(1)死者との連帯
黒澤明「蝦蟇の油」。画学生だった明の兄は、当時の活動写真の人気弁士だったが、トーキーの出現により失職し、自殺した。その後、明は映画界に入って活動を始める。シュタイナーは、ラファエロ(だったかな)を例に、亡くなった父親が創作に霊感を与えていたことを指摘している、黒澤作品の情熱と完成度の高さにも、私は、そのような意味での霊感を強く感じる。

(2)霊的内面性と土着性(民族の無意識の問題)
野村英夫(山の手、カソリック文化=武家文化、西洋)
内田百間(岡山、江戸・明治文化=町民文化、日本)
宮沢賢治(岩手、民話・自然霊文化=農民文化、銀河系)
この三者は、上から下に向かうにつれて、霊性の土着性が高まる。
しかし、土着強度の最高峰、賢治において、銀河的宇宙性が開花するパラドックスに着目すべし。

(3)内面性と社会性(精神文化のブルジョワによる独占)
野村の詩に表現される精神性の世界は、社会から断絶し、護られ、孤立することで、成立するものでもあった。親戚に外交官をもち、堀辰雄など「四季派」の文学青年たちと交流し、夏は軽井沢の避暑地で過ごすブルジョワ文化のなかで育まれたものであった。その出自によって、精神が経済に優越することができた一例ともいえる。
高橋巖先生は、かつて、内向即外向と言った。シュタイナーの社会論では、内面的な問題(精神性)と、社会という外向的な問題が、メビウスの帯のように、同一平面上で語られていると感じる。一方、「生活が精神を規定する」というマルクスの「現実的」なテーゼは、ブルジョワプロレタリアートの文化的断絶の前ではその正しさを認めざるを得なかった。しかし、戦後の高度経済成長によって一時期実現された「一億総中流化」の潮流の中で、日本の一般庶民はブルジョワ文化に親しみ、自家薬籠中のものにしてしまったとも言えるだろう。個人の精神性が活発に開花される社会がどのように実現出来るか。如何にして、精神が経済の支配を克服すべきか。分断されて当然と思われている内面性と社会性がいかに出会うか。シュタイナーも「生活の芸術化、すべての行為が芸術であるべきこと」を主張した。あらゆる内面性・精神性の表出が芸術であるとすれば、社会活動の芸術化は内向即外向の実現でもある。

ここで浮かび上がってきた問いに答えるための鍵が、社会有機体論=宇宙的身体論のなかにあるのが、シュタイナー人智学の構造ではないか。そして、身体論=宇宙論である事が、グノーシスに要約される古代的叡智の本質であり、それは日本の伝統や文化の根底にも「当然」見出すことができる。