アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

かき揚げ蕎麦と終末論

週末は、Twitterと昼寝と少しの読書で、体力が回復したので、日曜の夜に市営プールで泳いだ。家の中がほったらかしで、冷え冷えとしてきたようだ。外に出るのは良いことだ。金子光晴全集を読んでいる。初期のものは、詩のための詩、書くための詩である。今の状況にふさわしい人間の実存に響くような言葉は、まだ出てこない。戦後の「非情」にある言葉、風景は、まだ出てこない。戦争を経た人間の言葉。その前と後ではどのくらい変わるのか、それは明らかに、ひとりの人生の年齢の問題ではなく、詩の言葉のメタモルフォーゼとして観察できる。

前世紀、世界大戦の最中、ベルジャーエフは終末論的形而上学を唱えた。彼に共鳴するような状況が、二十一世紀の日本でも顕在化しつつある。常に"今"が終末であり、終末だったのだが、日常性にとらわれた人間、非哲学的人間はそのことに気が付かないで来ただけなのだ。

かき揚げ蕎麦を前にそう考えた。