アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

時間について(七月の改稿)

現在〈Dasein〉とは未来と過去を切断する『虚』であって、われわれは肉体によってこの『虚』にピン留めされている標本のようなものである。標本が生命を吹き込まれる。『虚』から開放される。未来も過去もないひとつながりの時間のなかに。それが死である。蝶は時空を超えて羽ばたく。

  *

アリストテレス時間論における『今』
そのヘーゲル的把握
あるいはその『現在』の把握について

現在が部分では無く補足しがたい全體であること!
その不可解を『前』と『後』の統一として解決する手法?

これはデデキント的『切断』の先駆か?
実在=現在は切断=虚によってしか示すことができない!
〈それは詩の方法でもありうる〉

「時間はどこにでもある」

この美しい夕暮れが現在を包括し得ているか?
この美しい現在において不死と永遠が同衾しているか?

「しかし、時間は変化や運動なしには存在しない」

運動
その純粋否定

 注目すべきは、
 『今』は感覺の対象、
 『前』と『後』は思考の対象だという点です。
 『今』は分割を可能にする『力』であり、
 『前』と『後』という契機は觀念的契機にすぎないのです。
 しかし『今』は同じものであり、
 同一の場面で分割しつつ統一するものである。
 同一の視点から見て、
 絶対的に對立するものが直接に存在しているのです。
 (ヘーゲル

『今』の『力』
これは古代宇宙誌に他ならない!
〈脳髄の〉惑星系
すべては脳髄である?
すべては海である!

「非主體から主體への變化は生成である」
「主體から非主體への變化は消滅である」
「形その他は一つの物のもとに生成したり消滅したりするが、生成消滅する『当のもの』は、變化しない」

 第一の運動體は、
 それ自身は不動である。
 アリストテレスは、
 天界全體が生成したものでも消滅しうるものでもなく、
 一つの永遠なる存在であり、
 永遠の時間のうちにあってはじまりもおわりもなく、
 無限の時間を内包することを證明します。
 (ヘーゲル

「一、生成以前の空虚は静止した自己同一體=生成しない永遠の物質である」
「二、生成以前にはなにも無く、生成においてはじめて『なにか』がある=運動は『なにか』とともに始まる=実在のあるところに運動がある」
「『はじまり』を論じる人びとは、第一の空虚な自己同一體たる永遠の物質と、第二の無とをむすびつけることがないのです」

「天界は土、火、空気、水とはちがうもので、むしろ古代人がエーテルと名づけたもの、つまり、無限の時間のなかをたえずはしりつづける最上界である」

だから宇宙の始まりを論ずることは虚しいことだ
すべてはすでに無のなかに始まっていたのだから
それが君のなかにある永遠の意味だ

  *

足を洗う
サンダルの裏の塵を払って
村を出る

 しかし私は、
 自分が最高の知慧と善意の世界のうちにいることを知っている。
 最高の知慧と善意とはその計画を完全に見通し、
 それを誤りなく遂行する。
 だから私はこの確信のうちに安らぎ、
 幸いである。
 (フィヒテ

この『しかし』こそが信仰の本質のように思える
この『しかし』の力を分析しないこと
ただ感じることが信仰の本質であるように思える
その力がどこからやってくるのか? 
この『しかし』に込められた力はいったい何なのか?

  *

「意識の空白としての睡眠の時間を白い地(意識のある時間)に空いた黒い穴のように思い描いくことができます。その穴に飛び込むことが自分を『私』と呼ぶことを可能にするのです。意識が持続し続けて、このような意識が飛び込む穴が無かったなら、人間は自我意識に目覚めることはないでしょう」シュタイナー

「どんな夢にも、すくなくとも一箇處、どうしてもわからない部分がある。それは、それによつてその夢が未知なるものにつながつている臍の如きものなのである」フロイド 

「そして一八八五年(明治18年)私が推奨したコカインの使用は囂々(ごうごう)たる非難を呼んだ。一八九五年(明治28年)に亡くなった親友のひとりは、コカインの亂用のためにその死を早めたのであつた」

「・・・創造的な頭腦の人間においては、悟性は自分の番兵を入り口のところに立たせてはおかない。だから色々な考えがわれがちに亂入してくる。そうさせておいてから初めて、悟性はそういう想念の大群を眺め渡して檢査するのだ」

  *

「私は決して私に對しては死なないであろう。・・・私自身にとっては死の時は新しき栄光の生への誕生の時である」フィヒテ