・・・なんとなれば ー次のことが實に私の信仰の内容だからである。
ー私の意志は端的に自己自身によって、その表現を弱めるいかなる道具も用いずに、それと全く同種の領域において、理性として理性に、精神的なものとして精神的なものに、作用すべきである。
ーだが意志がそれに対して生の、活動性の、持続の、法則を与えるのではなくて、自己自身のうちに法則を持っているような領域において、それゆえ自己活動的理性に対して、意志は作用するのである。しかし、自己活動的理性は意志である。従って超感性界の法則とは一つの意志であるであろう。
一つの意志、この意志は、自己自身によって、全くいかなる道具がなくても、或いはその働きかけの素材がなくても、純粋にただ意志として作用する。この意志は絶対的に自己自身にとって同時に行動であり、産物である。
この意志の意欲は生起であり、その命令は設定である。従ってこの意志のうちには、絶対的に自由であれ、そして自立的であれ、という理性の要求が提示されている。
一つの意志、この意志は自己自身において法則である。
☆
このようにして自我は及ぼす、
ー死すべき者は彼の言語に属する言葉を使用しなければならないのだが、
ー自我はかの意志に対して影響を及ぼす。
また、私のいかなる状況においても、私がそこのでなすべきことを私に教えてくれるところの私の内奥における良心の声は、それによって今度はかの意志のほうが私に対して影響を及ぼしてくるところのものである。
かの声は、
ーただ私の環境によって感性化された、私の聴取によって私の言語に翻訳された、永遠の世界からの神託である。
この神託は私自身が精神的世界の秩序に、
すなわち実際みずからこの精神的世界の秩序であるところの無限的意志に、
どのように適合すべきかを私に告知するものである。
私はかの精神的秩序の連鎖における一項にすぎない。
だから全体については判断することができない。
それはちょうど、歌曲中の個々の音が全体の調和について判断し得ないのと同様である。
しかし私は自分自身がこの諸虗藭の調和においてあるべきであるところのものを知っていなければならない。
なんとなれば私自身のみが私をこのあるべきであるところのものに作ることができるからである。
そしてこのあるべきであるところのものは、
かの世界から私に響いてくる声を通じて私に直接的に啓示される。
このようにして私は現存している一者と結合しており、彼の存在に関与している。
私の良心の声と私の内なる服従というこれら二つのもの以外に、私において真に実在的なもの、持続的なもの、不易なものは何も存在しない。
第一のものによって精神的世界は私の許に降り、私をその一員として捉える。
第二のものによって私はこの世界へと私自身を高め、それを摑み、そこにおいて作用する。
しかしかの無限的意志は精神的世界と私との間の媒介者である。
なんとなれば彼自身は精神的世界の、また私の、源泉だからである。
ーこれこそ唯一の真にして不易なるものである。
これに向かって私の魂はその最奥の深みから運動するのである。
他の一切は現象であり、消失してはまた新しい装いで戻ってくる。
フィヒテ・量義治訳「人間の使命」第三巻「宗教」第四章「宗教的世界観」
(中公バックス世界の名著「フィヒテ・シェリング」)