アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

福音

S博士によれば人間が靈感を受けられる期間は一月のうちの半分にすぎないと言う。私はすでにその半分を逃したようだ。自分を追い立てる情熱の正体も分からなくなってしまった。たとえば”四本の手のためのピアノソナタ”。モーツァルトなら、躊躇することもなく自らの手に神の手を添えることだろう。秋の乾いた光を飲み干し、薄明の薄紅色に魂を染める人。なぜなら音が光であり、生命であることを疑っていないから。

  *

逡巡する人は美しい
なぜならそのとき彼は世界から脱臼しているから
世界から意味が抜け落ちた場所にいるから
世界の一部では無くなっているから
言葉の届かない場所にいるから

逡巡する二本の腕
それは言葉の基底が失われた世界をさまよっているのだ

もはや世界の底は破れた
あなたはそのことに気がついていますか?

我らの失われた音階が響く
ロゴスの光の届かない場所で
失われた二本の手が触れようとする鍵盤の調律は狂っている

我々が見いだせないこの空間の基底
黒い鏡面
そこで失われた二本の手が触れてしまう双対宇宙
我々は夜明けのように這い上がろうとする
失われた二本の腕で

  *
 
無音の夢のなかで福音を聴く我ら