アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

感情の観念論ープロティノス「魂は罪を犯しえない。ではどうして罰があるのか?」

・・・プロティノス的綜合はキリスト教思想に対し、ある教義を(ある人びとの言うように)提供するのではなく、一つの方法、一つの物の見方を提供するのである。

そしてプロティノスの体系を活気づけるのは神への情熱である。けれどもまたプロティノスギリシャ人である。しかもギリシャ人であることを固く決意している。なぜなら彼はあくまでプラトンの注釈者であろうとしているからである。とは言えそれは空しい。

彼の言う宇宙霊はストア学派的である。
彼の叡智的世界はアリストテレスから来ている。

彼は霊の運命に心を悩ます(原注)、だが同様にまた自己の師匠に習って、生成を知的形式のなかに連れ戻すことを願う。

プロティノスにおいては概念上の素材が変わったわけではない、ただ感情のみが新しい探求に忙しいのである。プロティノス的風景の香りのすべてはそこにある、ーつまりギリシャ的観念論の論理形式のなかに感情を注入しようという努力のうちにある、一種の悲劇性である。

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そこからまた、文体の点から言って、ゆっくりした速度、段階的前進、むしろ拘束を進んで受け入れることから生まれるあきらかな技巧の巧みさがもたらされる。

そしてまた問題解決の深い独創性と意図の壮大さも、そこから生まれてくるのである。なぜなら、よくよく考えれば、プロティノスギリシャ哲学の力だけを用い、「信仰」の助けは借りずに、キリスト教が十世紀かかってかろうじて成功したことを成し遂げようと企てているからである。

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ほんとうを言えば、プロティノスの個々の教説は二重の様相を呈し、その偶然的一致はまさしくすでにわれわれが述べたような問題に対する一解決を決定するものである。その解決とはすなわち、霊魂の運命と、事物に対する純理的認識の混合である。それはちょうど精神分析學におけるように行われる。つまり診断と治療は偶然にも一致するのである。

啓示するとは、あるものを癒やし、認識し、その祖国に戻ることである。

「(《善》についての)証明は、善へと自らを高める手段でもある」

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認識するとは、「理性」に従って崇拝することである。
学とは観照であり内的瞑想であって、構築ではない。

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プロティノスの哲学は宗教的思想であるとともに、一つの芸術家的なものの見方である。事物が説明されるのは、事物が美しいからである。だが芸術家が世界を前にして捉えられるこの極度の感動を、プロティノスは叡智的世界のうちに持ちこむ。彼は自然を犠牲にして宇宙を讃美する。

「この地上に天上からやって来るすべての物は、上級の世界においてはさらに美しい」

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プロティノスの求めるのは物の外見ではない、むしろその失われた天国である物の裏側である。そして賢人の孤独な祖国に対し、地上のあらゆる物は生きた追憶となるのである。プロティノスが知性を官能的に描く理由もそこにある。

・・・そうしたわけでプロティノスは、自己の感覚をもって叡智的なものを捉えるのである。

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(原注)『エンネアデス』第一巻、一の一二
「魂は罪を犯しえない。ではどうして罰があるのか?」

アルベール・カミュキリスト教形而上学ネオプラトニズム、第三章 神秘的理性、 一 プロティノスの解決」滝田文彦訳