生き続ける限り、自分が背教者であるという意識はぬぐいきれない。しかし自分がいったい何に対して背教者であるのか? その「信仰」自体がまだ分かっていないのです。だから、ぼくには、まだ、殉教のときは訪れない。そして、生きている間に殉教のときが訪れるかどうかも定かでは無いのだ。
「帝国」の外へ!
あらゆる「対象化」は幻想である。哲學を学ぶぼくは怒りを肉体から分離することが不可能であることを悟る。それはぼくのすべての感覚の末梢にまで浸透してしまって、世界の色彩を変えてしまうので。詩を書く姿勢を取るぼくは躊躇無く怒りのなかに入って行くだろう。その未知の空間のなかに。しかし、そのとき怒っていたのは誰なのか? 怒りはどこから来るのだろう?
〈意識するものと意識されるものが二つのものとして現れるというのは一切の私の意識の制約である。このほかの意識というものを私は全く考えることができない。私は私を見出すやいなや、私を主観にして客観として見出すのである。しかしこれら二つのものは直接的に結合している。〉
すなわち『義』は不在であった。その不在の椅子にいつのまにか鎮座している僭王の名前は論じる者に依存しているようだ。或いは僭王の顔をのぞき込むと、その人の顔が映し出される仕掛けかも知れない。誰もがその正体を知りたがっているのだが、未だにそこは不在のままだと主張する者もいる。はたして『義』の不在が共同体=国家の滅亡を意味する時代は去ったのだろうか?
〈牛よ猿どもを踏み潰せ!〉
言葉と行為。この二者の愛憎關係をこんなに深刻に、自分自身の問題にしなければならない時代が来るとは、夢想だにしていなかった。それは勇気の問題なのか? それとも知性の問題? 行為からの逃亡ではない言葉はあるのか? 勇気からの退却ではない言葉はあるのか?
権力の物理。集団的現象にはなんであれ「分布」があって、そのうちの平均値が現象の行方を決定するかと言えば、必ずしもそうでは無い。「平衡」から外れた部分が現象の動的原因として、相変化をもたらす。平衡の内側から引っ張る力と外側に飛び出そうとする力が拮抗しながら、動的平衡=生命有機体を成立させる。つまり、生命有機体の成立には、双方の力が必要なのだ。片方だけであれば、それは固化した無機物に過ぎません。あるいは爆発する原初宇宙。
橋川文三が、日本人の敗戦体験を西欧人にとっての「ゴルゴダの秘儀」体験と同じ意味に転化することを夢想した、その真意は、明らかに、特攻隊員の死をキリストの死にダブル・イメージする、自己犠牲の美化・賛美だった。日本人の死の文化はこれからどちらに転ぶのだろうか。今は英雄不在の時代で、その代わり、「エネルギー」なる非人格的存在が世界の主催者であり、東電も、IAEAも、官僚も、エネルギー神社の神官であり、巫女である。それがぼくの終末論かも知れません。エネルギー信仰との戦いは、新しい宗教戦争です。宗教改革の必要性。近代、暴力が個人の手から奪われて、国家の専有物になり、その涯が、大虐殺の時代であるという。なぜ、暴力は姿を変え、形を変え、人類の歴史のなかで生き続けるのだろう。暴力とは、いったい何だろう? それは決して死なない何かなのだろうか。近代においては、産業も経済も、何よりも科学技術が、暴力という怪物の成長にとっての食料であり、育ての親なのだ。近代的な暴力は、個人的改革では決して死なない。本質的に社会的な存在なのだ。単一の悪、善の対立物としての悪という単純な把握は当然無効である。暴力は社会に憑依するのだ。
虚空に歴史が露出する特異点。後ろから照射される光に背を向けるばかりでは、前に進めない。まぶしくても、その光を直視する、そして自分自身が、光の中の影にならなければならない。
〈後ろを振り返るのが怖い(エウリディケを失いそうで?)〉
誤解は本質的にくだらないものだ。しかしそれも人間の限界のなかでは仕方がない。世界がもっと透明なら苦しみも無くなるだろう。今は競走馬のように視界を遮られながら疾走するしか手が無いのだ。”本題”はつねに困難なので、自らの力と”本題”の間の力の不均衡に負け、押しつぶされ、発狂してしまったり、死にたくなったりするかもしれず、そのなかに入ることは怖ろしい。入るにせよ、躊躇するにせよ、迫ってくる死は免れることができない。孤独と勇気。味方はそれだけ。それだけで十分である!
〈病=僭王の演説欲〉