アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

連続体の迷路、あるいは「内側に無限」であることについて

個々の自然数は数論の主題を形成し、
自然数の可能的集合(または無限列)は連続体の理論の主意である。

(b)連続体の本質的な性格はAnaxagorasのものとされている断片の中に明瞭に記されている:
”小さいものの中に最小のものは無く、
常により小なるものがある。
なぜなら、
存在するものはいかに再分されていっても、
存在することを止めえないから。”

連続体は”あたかも手斧によって切り離されたように互いに分離された”別々の要素から成ってはいない。
空間は決して終点に到達しないという意味で無限であるばかりでなく;
またそれはいかなる場所においても、
いわば、
内側へ無限である、
一点は無限に進行する再分過程によって一歩一歩的にしか確定されえない故に。

これは空間が直観に属せしめる静止している完全な存在とは対照をなしている。
この’開いている’性格は、
連続的空間と連続的な等級をもった性質によって外界の事物に伝達される。
実在的事物はけっして十全的には与えられない。
それの’内的視界’は常に新たなますます正確になる経験の無限に続く過程によって広げられる;
それはHusserlが強調するように、
Kantの意味における一つの極限概念である。
この理由により、
実在的事物を完結したそしてそれ自身において完成された存在するものとして措定することは不可能である。
連続体の問題はこうして人を認識論的観念論に追いやる。

なかでも、
Leibnizは、
空間と時間の概念を現象の秩序とする示唆をはじめて彼に与えたものは”連続体の迷路”から逃れる路の探求であったと証言している。
”数学的実体は根本的要素に分解されえないという事実からただちに、
それはなんら実在的なものではなく、
単に分割可能性を指示するにすぎない観念的形象であるということが出てくる”
Leibniz とDe Volderの往復書簡、Leibniz, Philosophische Schriften, II, p.268).

連続体のこの本性に反して、
Leibnizは単子という観念を構想した、
なぜならーーKantとは異なってーー彼は形而上学的に現象に絶対的実在の世界における基礎を与えざるを得ないと感じたからである。
”観念的なものまたは連続体の範囲内では、
全体は部分に先行する。
・・・部分はここでは単に潜勢的である;
しかしながら、
実在的な(すなわち実体的な)ものの間では、
単純者は集合者に先行し部分は現実的であり全体よりも先に与えられている。
これらの考察は連続体に関する難問ーー連続体が実在的なものと見なされ、
それが我々の企てるいかなる分割よりも先にそれ自身において実在的な部分をもつと見なされるときだけ、
また物質が実体と考えられるときにだけ起こる難問ーー
を除去する(Remond宛書翰、Philosophische Schriften, III, p.622)。

 ☆

Hankelは言う(Zur Geschichte der Mathematik im Altertum und Mittelalter, Leibzig, 1874):
”多角形の系列においていかに先に行こうとも、
円の面積に任意に接近はするけれども円の面積にはけっして到達しないという考えは、
いわば、
実在と理想の間に横たわる間隙を是非とも埋めようとする程想像力を緊張させる、
この心理的圧力の下に、
円は無限に多くの無限に小さい辺を持つ一つの多角形であるとの主張に達する
ーー無限に小さな、あるいは無限に大きな?ーー
一歩が踏み出される。
しかし、
古代人はこの一歩を差し控えた;
ギリシャ幾何学者たちがいた限り、
彼等は常に無限の深淵の前で立ち止まっている・・・”

ヘルマン・ワイル「数学と自然科学の哲学」(第二章 数と連続体、無限 ー 7.無理数と無限小)