アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

決定論に関するメモ (フィヒテ「人間の使命」)

他人のものは一切廃棄されよ。私はみずから探求しよう。 
               フィヒテ「人間の使命」

私は諸現象の閉じた連鎖の一項となる。 

因果的連鎖が閉じているということは、連鎖外からこの連鎖に進入することはできない、従って連鎖の方向を変えることはできない、ということである。決定論の特徴は連鎖が閉じているということである。 (同書・訳注・中公バックス世界の名著「フィヒテシェリング」より)

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決定論的・機械論的自然観は、前世紀、量子論とカオス(非線型力学系理論)の出現(発見)によってマクロなスケールにおいても破綻したはずだが、吾々の生に対する意識は、今なお「決定論」に引き摺られたままだ。或いは運命論=人間的自由の否定。高橋巖・流には”ドミナンテ”の忘失でもある。

前世紀の熱力学における成果=定常開放系理論(イリヤ・プリゴジン等)も、この意味(決定論における”系”の閉鎖性)では古典的決定論から(決定的に!)乖離していったもののひとつに数えられよう。自然科学は「自然の自由」の発見に向けて進んできた一方で、人間の生自体は大幅に遅れをとっている。

雨季はインドっぽくて好き。。。そのほの暗さがもつ延長性と雨音。。。繁茂する植物たちの発する匂い。。。緑の階梯が天まで延びていって見えなくなる。。。ひたすら雨の故郷をあこがれている気分が。。。

物質の世界は、原子の世界までたどれば、論理でその精妙さを感知できるようになった(前世紀のこと)。人間的スケールに於いて、ほんとうは存在しない、「マテリアル」の精妙さを感知できるようになるには、退行するか、進化するか、少なくとも、現在から、なんらかの離陸が必要です。