朝、何気なく手にとって開いた本の頁が一種の啓示になる。今朝は、それが、"The Cambridge Dictionary of Philosophy"で、"emanationism"でした。「流出主義」とでも訳すのかな。プロティノス。そうか! 今日もその線で行こう!(笑)
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 5
昨日のモデ。いつものように、人々のぼくたちへの「視線」を観察していました。初めは、明らかに避けている感じがありありとあった。得体の知れない不気味さ、変なものに関わり合いたくないという警戒心。それは、モデを開始した直後でまだウオームアップされていなぼくらの「硬さ」の反映でもあった。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 5
連休の上野公園には、それこそありとあらゆる年齢、居住地・出身地、民族、社会的階層の人たちが押し寄せていたので、それぞれの反応の違いを読み取るべく、努力もした。そのような「属性」による反応の違いというものがあるのだろうか。あるような気もしました。そういう意味でも、勉強になりました。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 5
計画的に意図的に『異物的に社会にかかわること』は面白い。これはモデの意図とは別に全くの個人的な思いですが。『分析即治療』が精神分析の原理なのだと思いますが、『行動即治療』という側面がモデにはある。これはモデに限らず社会行動にはまる人たちの心理に共通するものかも知れないと思います。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 5
モデのような社会的行為を、「人智学」的に、社会有機体に対する治療行為として捉えた場合、そういう意味で、まず、行為者自身の治療が始まっている。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 5
ぼくは、シュタイナーの影響を受けている人間としては、まったく孤立しているし、『異端』でさえあると思います。人智学協会理事とか言う人から見たら(笑)。しかし、ともかく、「アームチェア人智学」から脱却して、「路上の人智学」に華麗なる変態をとげたいものだと思います。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 5
以上は、モデから一夜明けての、個人的な頭の整理・メモです。むしろ、モデ当日、参加されたみなさんそれぞれの思い・行動とは全く關係が無いとも言えるので、昨日書かないでよかったようなことです。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 5
まったく個人的な結論。路上の社会行動=社会有機体に対する治療行為であり、社会有機体を自らのより大きな身体として持つ個人の治療が同時に始まっている。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 6
路上の社会行動=社会有機体の自然治癒力の発露。。。でもある。したがって、それに従うことが、社会有機体を自らのより大きな身体としてもつ「人間」の自然である。。。
#個人的メモ
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 6
「もはや、蓄積された膨大な量の濃縮された放射性核物質は、物質文明の原罪として、今後、日本人が子々孫々にわたって背負い続けなければならない重い荷物なのだ。」http://t.co/uHqGjqbq0k 子どもの日・上野公園動物園。脱原発モデの背景です。2011年7月のブログ記事。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 6
ぼくも下町の生まれで、子どもの頃は、この時季、熱い銭湯の菖蒲湯に浸かっていたわけです(がまんして)。しかし、もはや田舎暮らしが長く、すっかりなまってしまいました(笑)。 https://t.co/07q5XGhhDg
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 6
そうでしょうか? 「社会的主張」を路上で、人々の前で行い、それをまだはっきり意識していない人々が気づく可能性を開く努力に、意味が無いと、何故、断言できるのでしょうか? 何故、このようなツイートが受ける日本なのでしょうか? https://t.co/OftfHrih9T
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 6
「ゼネスト」と「デモ」の効果を混同しているのでは? あるいは「暴動」と「デモ」を混同しているのですか? だったら何をすればいいのでしょうか? お教え下さい! 私には、このツイートに『大衆意識の蔑視』が垣間見えて仕方が無い。。。。 https://t.co/OftfHrih9T
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 6
あぶねい! やっぱり(笑)。 懲りずにまた行きたいです。。。 https://t.co/isSKFJazFf
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 6
コメントに気がつくのが遅れてしまいました。ありがとうございます! 今回も、面白くてためになる(笑)モデでした。「継続」と言うより、『やむにやまれぬ生の衝動』として、またモデすると思います。よろしくお願いいたします。 https://t.co/OVEH5vKASi
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 7
『悲観的観測』とか『闘う・抗う前からすでに敗北』主義とか、そういうのは頭のいい人たちに任せておいて、ともかく生きようとする衝動としてモデする。勝つか負けるか、そういう『一時的な結果』は神様だけが御存知だ! 『最終的』には勝ちが約束されている。それが『福音』の意味でしょう。。。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 7
少なくとも今はそんな風にしか考えられません。。。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2015, 5月 7
@longtonelongton 哲学←ごめんなさい、正直よく分かりませんが..m(__)m
けど、この運動は素晴らしいですね。「こどもの日に動物園で」とか普通は思いつかないし、思いついたとしてもおそらく出来無い。それとなく普通の人達に問いかけるモデ。スゴイです!
— jim.hall.in.berlin (@jimhallinberlin) 2015, 5月 6