すでに朝日の射す部屋には血の匂いが立ち込めていた。病気の猫の身体が血の分子になって部屋の大きさにまで拡大していたのである。エーテル化した猫の身体の中で、朝日を浴びるぼくの思念は集中と拡散を鼓動しながら、宇宙の生命の輪郭に触れようとしていた。
忘れられた思想家
ランゲの伝記作者たちにも
彼が一匹の猫を飼っていたことは知られていない
1780年9月27日
白昼のパリで
彼が逮捕され
バスチーユに収監されたとき
彼の部屋に猫はすでにいなかった
逃亡するぼくは燃える言葉の塔だった。王の、貴族の、農民の、階級の、重圧の、鈍重の、濫費の、貧窮の、燃えさかる、言葉の塔だったのだ。生きようとする者たちの夜明けの痛みが、天に届く寸前のバベルの塔のように、立ちあがってしゃべり出した。
ーどんな呪いも愛情には勝てない。愛情それ自体がもっとも強い魔術であり、それ以外の魔術はどんなものでも愛情には及ばない。しかしその愛情もかなわない力が一つだけある。それはなんだろう。火でもなく、水でもない。空気でもない。大地でもなければそのなかに埋まっている鉱石でもない。時間である。ー
石の壁のなかに幽閉されたものはぼくの身体なのか? 幽閉されたものは、三重の壁と三重の格子のなかに幽閉されたものは。それは時間ではなかったのか?
あの時、燃えさかる書物、燃えさかる書物の山頂で垂訓したのは、ぼくだったのか? 燃えさかる言葉は忘却され、時間という灰になった。
ギロチンの血だまりを越えて
一匹の猫が
歴史の回廊を
ゆっくりと近づいてくる
赤い小さな足跡
神曲「天国篇」に顔を埋めて
ランゲの首が
ぼくの図書室で
静かに眠っている朝