アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「人智学、その本質および哲学的根拠について」 ベルン 1920年(大正9年)7月8日;独逸語の勉強 #7

Man ist ja in der neueren zeit sogar so weit gekommen,
daß man eine Philosophie des <> begründen wollte,
新しい時代になって、
われわれは、
「かのように」の哲学を創出するところまで来てしまいました。

das heißt,
man sagte sich,
それによれば、
われわれは自らに、こう言い聞かすのです。
man könne doch nicht irgendwelche ganz klaren,
われわれには何ごとも明らかすることは出来ず、

lichtvollen Begriffe sich erringen von Kraft und Stoff,
力と物質に関する明快な概念を獲得することも、
不可能である、

und so solle man forschen im weiten Umkreis der Erscheinungen,
der Wahrnehmungen,<> solche Begriffe einem Realen entsprechen würden,
そして、
われわれは、
そのような概念と現実が一致する「かのように」、
広大な諸現象、
知覚の領域のなかで研究するほかにないし、

das man eben nicht kennt,<> sie irgendeine Berechtigung hätten.
しかも、
そのような権利を所有している「かのように」振る舞っていることすら、
自覚していないのである、
と。

Man darf wohl sagen,
es ist eine desperate Weltanschauung,
diese Philosophie des <>,
so plausibel sie auch gerade manchen Menschen der Gegenwart erscheint.
たぶん、
こう言えるでしょう。
「かのように」の哲学、
それは絶望的世界観なので、
むしろ、
多くの現代人にもっともらしく思われてしまうのだと。

Wir stehen eben durchaus bei einem der Eckpfeiler menschlichen Erkenntnis,
wenn wir bei diesem Begriffe,
bei diesem Grenzbegriffe des Naturerkennens angekommen sind.
われわれが、
この概念、
自然認識の限界の概念に至るとき、
われわれはまさしく、
人間の認識の根本(支柱)そのものを問題にしているのです。

Bloß intellektuell verfolgt werden diese Begriffe für unsere Erkenntnis gewissermaßen zu einem Kreuz, zu einer Crux.
単に知的に追求されるだけであれば、
われわれの認識に関するこの概念は、
ある意味で一つの苦難、苦行になります。