アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

感覚一元論による”自我”の消失:「自我は無い」=人類への福音、を説くエルンスト・マッハ

「普通には物体と呼ばれている色、音、等々の複合体」→ABC
「身体と呼ばれている複合体」→KLM
「意志、記憶像等々の複合体」→αβγ
* 複合体KLMはいくつかの特質によって特別な扱いを受ける複合体ABCの一部分である。

しかるに、身体K’L’M’(注:他者の身体複合体)・・・に属する感覚だとか感情とかを問題にしはじめるや否や、われわれはもはや、感性的な領域のうちにそれを見出すのではなく、頭のなかで附け足して考えているのである。いま足を踏み入れた領域は、われわれにとってはるかに馴染みが薄いばかりではなく、この領域への移行もかなり不確実である。まるで奈落の底に落ちていくような感じがする。
・・・ マッハ「感覚の分析」第一章「反形而上学的序説」・・・普遍から最も遠い場所である感覚(アリストテレス形而上学”)による哲学が、反形而上学を宣言するのは、当然か。

要素ABC・・・は、相互に聯関し合っているだけでなく、要素KLM・・・とも聯関しているのである。その限りにおいて、且つその限りにおいてのみ、われわれはABC・・・を感覚と呼び、ABCを自我に属するものとして考察するのである。

私が「要素」「要素複合体」という表現と併用して、ないしは、それを代用して、「感覚」「感覚複合体」という言葉を以下で用いる場合、要素は右に述べた結合と関聯においてのみ、すなわち、右に述べた函数的依嘱関係においてのみ、感覚なのだということを銘記さるべきである。

この感覚は、他の函数的関聯においては、同時に、物理的客体である。私が要素という語と併せて感覚という語を用いるのは、ただ次の理由によってなのである。すなわち、一方では、私のいう要素は大抵の人びとにはまさしく感覚(色、音、圧、空間、時間、等々)として親しまれており、他方、世間一般の理解では、質量の微粒子を以て物理学的要素〔元素〕となし、私がここで用いている意味での要素はそれに「性質」「作用」として付着しているのだというふうに考えられているからである。

先にのべた物体と感覚、外界と内界、物質界と精神界との間の溝渠は、このような次第であるから、実は存在しないことが判る。すべての要素ABC・・・KLM・・・はただ一つの脈絡ある集塊を形成しており、どの要素が動かされてもその全体に同様が起こる。

唯、KLMにおける擾乱は、ABC・・・におけるそれよりもはるかに影響が広く深いというだけの話しである。磁石は、われわれの環境世界の内部で近くにある鉄片を攪乱するし、落石は地面を揺るがす。しかるに、神経の切断は、要素の全体系を動揺せしめる。

こういった関係があることから、知らず識らずのうちに、若干の個所(つまり自我)においてかなり強固に聯関している強靱な集塊のイメージができあがる。私は講義で屡々(しばしば)この像を利用してきた。

  ☆  

  ①アリストテレス形而上学
→ ②シュタイナー「講義板書」
→ ③マッハ「感覚の分析」

② シュタイナー「自我・アストラル体エーテル体・肉体」複合体としての人間

③ マッハ「ABC(物質界)・・・KLM(肉体)・・・αβγ(意志・記憶像等)」統合による感覚論的一元論

  ☆

知覚も意思も感情も、
要言すれば、
内外世界の全体は、
或る時には流動的に結合し或る時には鞏固に結合している少数の同種の要素から成り立っている。
これら諸要素は普通には感覚と呼ばれている。

しかし、
この感覚という名称にはすでに或る一面的な理論が籠もっているから、
先にそうしたように、単に要素という語を用いることにしたい。

あらゆる研究はこの要素の探求を目指している。

第一次的なもの[根源的なもの]は、自我ではなく、諸要素(感覚)である。
諸要素が自我をかたちづくる。

・・・

自我は死を免れない。
このことの洞察から、
また恐怖から、
極端に悲観的な、
または逆に楽観的な、
宗繁的、
禁欲主義的、
哲学的な倒錯が生ずる。
が、
心理学的な分析から帰結する簡単な真理にいつまでも目をつぶり通すことはできない。
この真理を見据えるとき、
人びとは自我なるものにもはや高い価値をおかなくなるであろう。

そうなれば、
人びとは個体の不死ということを欣然として諦念し、
副次的なもの[自我]に主要なもの[意識内容]以上の価値をおくようなことはしなくなるであろう。

そのことによって、
人びとは、
もっと自由で、
光明にみちた人生観を
 ー 他人の自我を貶め、
自分の自我を過大評価するといったことのない人生観をいだくようになるであろう。

 エルンスト・マッハ「感覚の分析」須藤吾之助・廣松渉訳(法政大学出版会、2013年10月新装版第一刷)

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自我は無い!
すべては地続きであり、
あるのは關係(結合)の強弱だけだという「福音」を説くマッハ。