しかし藭の本質は、
ただ最高の普遍性と隠遁性とに於いて考へられた本質、
しかし又それ故に名のない、
藭秘な人間の本質に過ぎないやうに、
藭の意思も亦單に人間の神祕な、
名づけられない、
しかしその故にこそ又眞の意思である、
何故なら人間は秘密のうちでのみ、
藭的な權威の保護と翼の下でのみその意思を語るからである。
フォイエルバッハ「唯心論と唯物論 6必然と責任」
(関根悦郎・國互一訳、共生閣、昭和六年十一月発行)
☆
F氏、
しかしそれだからこそ、
逆に言えば、
”人間の中の藭”という言も成り立つのではないですか。
藭の本質は、
人間の本質に過ぎない、
のではなく、
藭の本質が、
人間の本質に等しい。
そこに”基督教の本質”があるのではないですか?
「基督教の本質」を書いたF氏。
それも読まないと、
いけないかな。。。
「藭の本質は、・・・藭祕な人間の本質に過ぎない」フォイエルバッハhttp://t.co/lALKtQqKAR 読書メモです。十九世紀に支配的になる唯物論の考え方の勉強。神学の転倒か。望遠鏡を逆さに覗く男フォイエルバッハ。藭は無限に遠ざかる。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) 2014, 3月 26