アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

パウロの復活

パウロ書簡”とされてきたもので、どれが真で、どれがそうで無いかという問題があることは識っていましたが、そういうことをひとまず措いて、自分で読むということにしています。岩波版「新約聖書翻訳委員会」の作品(学問的解説付き)も持ってます。確かに自分で読んでいてそういう感じがします。

聖書の成立に関する問題(当時の学問水準においての)が、幸徳秋水による基督教批判の根拠のひとつでもあった。パウロ書簡群の間の雰囲気の違いについては、現在の学問的判定は措いて、自分の読みの印象では、”相手”に応じて”説教”の内容を変えているようにも思えました。

唯、基督教信仰が、文字通り、命懸けであった当時、殺されても殺されても次のパウロが現れて、”当局”を悩ませた。そんな幻想も抱いてしまう。パウロの最期は確定されていないらしいので、そんなファンタジーも許されるでしょう? 

   ↑ 明らかに白土三平の影響(笑)。

もう一つは、日本の殉教者たちの受けたむごたらしい迫害・虐殺の様が、パウロが「ヘブライ人への手紙」で描いている様子の再現のようであること。当時、迫害した幕府も殉教したキリシタンも、得られた聖書の知識は全く限られたものだったはずなので、歷史の不思議を思わざるを得ませんでした。

ただ、今、日本の良心的な人びとや知識人が重大な関心を抱いているフェミニズム性的少数者問題に関しては、”パウロ”を読むとがっかりさせられるはずです。そのために”棄教”する人もいるかも知れない。現世で闘うな!、現体制に従え!、少なくとも、”一人のパウロ”はそう説教する。

パウロ書簡”は一つでは無いし、パウロも一人ではなかったかも知れない。あなたはどのパウロに従いますか?