レーニン著 平沢三郎訳 「プロレタリア革命と背教者カウツキー」(国民文庫107、1953年3月発行)
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レーニン「プロレタリア革命と背教者カウツキー」(平沢三郎訳、1953年発行、国民文庫)。背教者っていう響きが既に美しい(笑)。翻訳が生き生きしていて、レーニンの皮肉、罵倒、煽動、革命の只中の状況把握が彷彿として面白いです。注意散漫で読むの遅いけど、ぼくにとって読むべき本だと思う。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) November 2, 2013
↓(。・ω・。) 革命の行方。シュタイナーの立ち位置(社会有機體三分節化運動)も独特だし、其の頃のロシア神秘主義者も共産主義に幻滅した経歴があったり。エリファス・レヴィも元来社會主義者だったと思います。財の共有としての共産主義なら、原始基督教に遡る。この辺は面白いので勉強します。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) November 2, 2013
マルキシズムの階級(プロレタリアートとブルジョアジー)っていう二分法と、シュタイナーの社会有機體三分節化という文字通りの三分法。形式的には前者の方がより「教会的(霊の隠匿→独裁)」で後者の方が「宗繁改革的(霊の奪還→自主管理)」。プロレタリア革命が霊的には反革命であるという逆説。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) November 3, 2013
宗教改革運動への、ディレイ(遅れ)のかかった反革命としてのプロレタリア革命。 唯物史観(霊の隠匿)→プロレタリア独裁 →世界の政治的經濟的一元化 → 精神(個)の蒸発。 人智学(霊の奪還)→社会有機體三分節化 →精神(個)の再生・独立。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) November 3, 2013
コーヒー淹れてきます。やっぱり、歷史っていうのは、ある根本的な衝動が姿形を変えては、くり返しくり返し登場してくるものなのかも知れません。意匠は異なるが、なにか”根本的な精神”が、死なないで、復活してくる。
— armchair anthroposop (@longtonelongton) November 3, 2013