アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ダニエル書とミュンツァー

・・・革命の徹底的拒否に向かうルターの終末觀、歴史觀に対して、ミュンツァーのそれは彼の神秘主義的革命觀を歴史的必然性によって弁償し補強するという役割を果たした。

「この世の終末は近い、藭は私を収穫のために雇い給うた。」

現実に背藭の徒を絶滅すべくザクセン諸侯に同盟を提起した「御前説教」の時点で、それははじめて壮大な歴史觀となって展開されることになる。

ここに現れた千年王国的歴史觀は、
まさしくルターの終末觀、歴史感の対極に立つものであった。

それはまず第一に、
終末がルターにおけるように地上の歴史を不意に断絶して超現世的次元で発生するのではなく、
歴史内在的な発展線上の終極にある此岸的歴史的完成状態として考えられていることである。

第二にその終末はルターにおける認識不可能な藭の決断によってでは無く、
選ばれた者による藭の御業への協力によってもたらされるのであり、

従って第三に、
最後の審判は、
キリストのみによって行われるのでは無く、
彼の意志を担った選ばれた者による背神の徒の肉体的絶滅と既存の秩序の破壊転覆という暴力革命の形態をとるのである。

さらに第四に、
終末に向かう歴史の必然的過程は、
被造物性へのこの世の堕落の深化とそれが不可避的に惹起する聖霊の拡大発展という弁証法的闘争過程(具体的には被造物秩序を担う背神の支配者と真の信仰を担う選ばれたる者による闘争の過程として現象する)として捉えられていることである。

この点でもまた歴史内在的目的や合法則的発展を認めず、
たとえ現象的には神の言葉と悪魔の闘争場として現れようとも、
本質的には超歴史的永遠の存在である神の独一運動によって歴史の一切は決定されるというルターの摂理史観とも、
それは決定的に異なっている。

かかるミュンツァーの目的論的に構想されたダイナミックな歴史觀は、
彼がかの説教で用いた「ダニエル書」から獲得されたものであった。

ユダヤ教とヘレニズムの抗争の中にあってマカベアの軍を鼓舞すべく紀元前百六十年代につくられたこの書は、
神の聖徒の最終的勝利とこの世における千年王国確立の歴史的必然性を弁証せんと試みたのである。

この弁証にあたってダニエル書の記者は、
各段階を追って旋回する古典古代の円環的歴史像に、
終末に向かう一回的な発展方向を与うべく、
新しきエーオンが生じる前に必然的に通過しなければならない諸歴史段階として、
それを一直線に引き延ばし、
古代イスラエル予言者の関心の的となっていた未来の神の国へと結びつけたのである。

かくしてこの「予言者的最終王国觀と人類史の合法則的歴史段階觀との結合により、史上はじめて歴史の弁証法的把握が可能となった」(ヒンリックス)のであり、
その後のあらゆる千年王国思想に決定的刻印を与えたということができる(ちなみにミュンスター千年王国のロートマンによる弁証もピューリタン革命の第五王国派もダニエル書を下敷にしている)。

 ・・・・

ミュンツァーにとって、
眼前に存在するこの第五帝国、
神聖ローマ帝国こそが、
以前の四つの帝国(*)とは異なり、
終末につながる最も徹底的に堕落した背神の最後の帝国以外のなにものでも無かった。

なぜなら、
ダニエル書において予言された永遠の国を統べるべく遣わされるメシア「人の子のようなもの」「いと高きもの」が、すでに「人の子」イエス・キリストとして出現し、聖霊に満てる教会(千年王国の萌芽形態)をつくったにもかかわらず、
この第五帝国では、
現世の富や権力をむさぼる聖俗権力が共同してそれを蹂躙し、
神の座を簒奪して被造物崇拝を行い、
「キリストを全世界の足の汚れを拭う雑巾にしてしまっている」からである。

だがそれゆえに「第五帝国は終末への過程を今まさに進みつつある。」
なぜなら、この瀆神行為を通じてそれは自己の罪と悪とを白日のもとに暴露し、
その絶対的対立物であるキリストの霊を選ばれたる者たちの心の中に喚起し、
真の信仰を不可抗の力をもって増大し拡大していくからである。

(*)バビロン、メディア及びペルシャギリシャ、ローマ。

 倉塚平「異端と殉教」筑摩書房、1972年(昭和47年)4月初版