目に見えるもの(感覚的なもの)のうち、
非理性的なものよりも理性的なものの方が美しく、
また、
知性は魂なしではなにものにもかかわりえない、
と考えた神は、
ー この推論にもとづいて魂のなかに知性をおき、
肉体のなかに魂をおいた。
知性は肉体なしでは目にみえるものにかかわれないからである。
「こうして、
世界は魂と知性をもつ動物になった、
との推論がなりたつ。」
こうして実在と知性(ヌース)があらわれ、
魂はこの両極を結合するものとなる。
これはまったく正当な、
現実味のあるとらえかたです。
「そうした動物は一つしかない。
二つ以上いるとなれば、
それらは一つの動物の部分にすぎず、
本当にあるのはただ一つである。」
さて、
つぎに問題となるのは、
物体的実在の理念をどう定義するかということです。
「世界は物体的なものであり、
目に見え、
手で触れられなければならない。
そして、
火がなければなにも見ることができず、
かたいものや土がなければ、
なにも触れることができないから、
神ははじめに火と土をつくった。」
これは子どもっぽい導入部です。
「この二つは第三のものなしには結合されないから、
その中間に二つをむすぶ紐がなければならない。
(これはプラトンの純粋な表現の一つです。)
が、
紐のなかでももっとも美しいのは、
紐自身と紐がむすびつけるものとを最高度に一体化する紐である。」
これは深遠な思想で、
そこには概念ないし理念がふくまれている。
紐は主体的かつ個体的な力であり、
他者に手をのばすとともに他者と一体となるものです。
「この結合をもっとも美しくなしとげるものが比例の関係である。
(比例とは)三つの数や量や力があるとき、
初項と中項との関係が中項と末項との関係にひとしく、
逆に、
末項と中項との関係が中項と初項の関係に等しいものである(a:b=b:c)。
この中項が初項や末項となり、
逆に初項や末項が中項になれば、
すべてはまちがいなくおなじものになる(区別は存在しなくなる)。
それらがおなじものになれば、
すべてが一つになる。」
これはいまなお哲学のうちに保存されているすぐれた考えです。
プラトンは二項対立から出発して論理学ではおなじみの推論を展開しています。
この推論は通常の三段論法の形式を備えていますが、
そこには理性がはたらいています。
二つの項は区別されつつ、
この二項を統一するのは同一性です。
対立する二項と関係しつつこれを統一する中項は、
三項の相互浸透を保証するもので、
そうした三項関係は哲学的思索にふさわしい。
三項関係のうちには理性そのものである理念が、
少なくとも外面的にはふくまれています。
だから三項関係をけなすこと、
それを最高絶対の形式とみとめないことはまちがっています。
分析的に思考された三項関係ならば、
非難にあたいする。
中項が他の二項を統一することがなく、
三項がべつべつのものとされ、
形式的にも独立し、
他とはちがう独自の意味をもつのですから。
が、
プラトンの哲学ではそんなことはなく、
哲学的思索が三項関係本来の正しい形式をつくりあげています。
中項が初項と末項を最高度に統一し、
初項と末項は相互に独立することもないし、
中項にたいして独立することもない。
中項が他の両項へと変化し、
両項は中項へとかわる。
そうなってはじめて。
すべては必然的におなじものとなり、
統一が形成されるのです。
これに反して、
分析的思考による三項関係では、
統一が、
あくまでも本質的に一致しないものの統一にすぎず、
一つの主体、
一つの内容が、
別の内容と結合される、
あるいは、
中項によって二つの違う概念が結合されるのです。
が、
肝心なのは、
主体が中項において他の主体ではなく、
自分自身と結合されるという同一性の論理です。
つまり、
理性による三項関係においては、
一つの主体、
一つの内容が、
他者をとおして、
又、
他者のうちで、
自分自身と合体されるということ、
ー いいかえれば、
初項と末項は同一物となり、
両者の合体は同一物の合体となることです。
これはべつのことばでいえば、
神の本性をしめすものです。
神が主体となるというのは、
神が子なる神と世界をうみだすこと、
つまり自分とはちがう形をとる実在のうちに自己を実現し、
そのうちで自己同一性をたもつこと、
つまり、
離反を否定し、
他者のうちでただ自分自身と一体化することです。
そうなってはじめて神は精神です。
間接的なものより直接的なものをよしとした上で、
神のはたらきは直接的だと主張する人がいて、
それにも一理ありますが、
具体的なものとしての神は、
自分自身と一体化していく三項関係(三位一体の関係)なのです。
だから、
プラトンの哲学には最高のものがふくまれている。
そして、
すべての具体的な形式において、
何より重要なのは思想の内容です。
この三項形式はプラトン以後二千年ものあいだそのままほっておかれ、
キリスト教のうちに思想としてとりこまれることはなかった。
人々はそれを不当にも外来の見解と見なし、
この考えのうちに概念と自然と神がふくまれることを理解しはじめたのは、
ようやく近代になってからです。
(長谷川宏訳 ヘーゲル”哲学史講義・中” 河出書房新社 1994年2月20日再版)
☆
当たり前かも知れませんが、ヘーゲルが”精神”と言う場合、現代人がその言葉で思い浮かべる貧弱なものとは、スケールの違う何かである、とあらためて思う。
『そうなってはじめて神は精神です。』
はむしろ、
『そうなってはじめて神は霊です。』
の方が、原意に近いと思う。
もう一つ重要なことは、キリスト教が二千年近く”三項関係”の思想を退けてきたという指摘で、霊魂体のうちの霊を教会が管理し、民衆から奪ってきた歴史を、私には思わせる。
ヘーゲル的プラトニズムによる三位一体論。