アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ヘーゲル"哲学史講義” A.プラトンの哲学  ”教養人の洗練、自由な態度とは”

対話中の人物たちのふるまいを表現する調子には、
教養人たちの高尚この上ない(アッティカふうの)洗練が見てとれます。
それを見ると、
自由な態度とはどういうものかがわかる。

出てくるのは、
身の処し方を心得た紳士たちです。
礼儀正しいというだけでは洗練さをいいつくしたことにはならない。
礼儀正しさにはなにか余分なものが、
いうならば、
敬意や優秀さや義務感が多少とも余分に、
多少ともひけらかすようにふくまれています。
洗練とは礼儀正しさを土台としつつ、
その真のすがたをあらわすものです。

洗練された人は、
他人のものの感じ方、
ものの考え方は完全に個人の自由であると考え、
 ー 話し相手のすべてに表現の権利をみとめ、
相手に異議をとなえたり反論したりするなかで、
以下のこと、
つまり、
会話では客観的な知性や理性が議論をかわすのではなく、
生身の個人が登場するのだから、
自分自身の発言も他人の表現も主観的なものにすぎないことをしめすのです。
(話の多くは、わたしたちにはたんなる皮肉に思えます。)

発言に全力をかたむけながら、
他人もまた知的な、
思考する個人であることが常に承認されている。
安住できる論拠などどこにもなく、
他人のことばをさえぎることはゆるされない。

このような洗練された態度は、
相手への思いやりのあらわれではなく、
最大限の率直さのあらわれで、
それがプラトンの対話篇を優雅なものにしています。

長谷川宏訳 ヘーゲル哲学史講義・中” 河出書房新社 1994年2月20日再版)