アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

魂という神殿について(マタイによる福音書第二十一章第十二節)ーエックハルト説教集[説教1]

もしこの神殿がすべての障害から、
つまり自我性と無知から自由になるならば、
この神殿は、
造られざる神ただひとりのほかは何ものも同じ輝きをもって出会うことのできないほどに、
神の創造したすべてのものを超えて、
そのすべてを貫き、
美しく輝き、
純粋にして透明な光を放つのである。

真実のところこの神殿に等しいものはただひとり造られざる神のほかにはない。

天使たちより下位にあるもので、
この神殿に比べられるものは何もない。

最高の天使でさえも、
高貴な魂というこの神殿に、
ある程度は等しいが、
しかし決して完全に等しいわけではない。
ある程度等しいというのは、
認識と愛に関してあてはまるだけである。

しかし天使たちにはひとつの到達点というものが設定されていて、
それを超えていくことが彼らにはできない。

魂はしかしながらこれを超えて進むことができる。

もし魂がー
しかも、
まだなお時間性のうちに生きている人間の魂がー
最高の天使と同じ高みに立つとしたならば、
この人間はその自由の能力において、
しかも一瞬一瞬の今において新しく、
数を超え、
つまりあり方なく、
天使やすべての被造的理性のあり方を超え出て、
天使も到達できないほどのはるか高みにまで達することができるであろう。

神のみが自由であり、
造られざるものである。

それゆえに神ひとりが自由という点で魂に等しい。

とはいえ、
非被造性という観点からいえば決して等しいわけではない。
なぜならば魂は造られたものだからである。

しかし魂が純粋無垢な光のうちへと入り来るとき、
魂は自分の力ではもはやその被造的な有(う)にひきかえすことができなくなるほどまでにその被造的有から遠ざかり、
魂の無のうちへと転ずる。

すると神はその非被造性によって魂の無を支え、
魂を神の有のうちで保つのである。

魂はみずから無となり、
神が魂を支えるまでは、
自分自身では再び自分自身に帰り来ることができなくなるほど遠くまで離れ出る。

これは、
どうしてもそうでなくてはならないことなのである。

というのもわたしがさきに言ったように、
「イエスは神殿に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、他の人々にむかって『このようなものはここから運び出しなさい』と言った」
からである。

エックハルト説教集[説教1](田島照久編訳 岩波文庫1990年6月発行)

   ☆

シュタイナーによれば、この宇宙に欠けているものは、自由の霊であり、それに向けて霊的進化を遂げて行くことが人間の使命である。引用したエックハルトの説教は、その言葉に激しく共鳴しています。人智学の源流に触れた思いがします。