まことに、主よ、
汝の住みたまふところは「近づきがたい光」である。
何となれば、そこに汝をはっきり見るために、
その光の中に入り得るものは、固より他にないからである。
まことに私もその光を見ないが、
それはその光が私にとって、餘りにも強きにすぎるからである。
而も私は、何を見るにせよ、その光によって見る。
それは恰も繊弱き(かよわき)眼が、
その見るものを、太陽の光によって見るけれども、
その光を太陽そのもののうちに注視することが出来ないと同然である。
わが知性はその光に達することが出来ない。
光は餘りにも輝き、わが知性はその光を捕へず、
わが魂の眼は長くその光を熟視するに堪へない。
わが魂の眼は、その光の閃光にによって眩まされ、
その廣裕なるに克服せられ、
その無窮なるに壓せられ、
その無量なるに惑わされる。
おお、完き幸なる眞理よ。
私はこの通り汝の近くにあるのに、
汝は如何に私から遠くありたまふか。
私はこの通り汝の見たまふ現前にあるのに、
汝は如何に私の見ゆるところよりも遠ざかりはまふか。
汝は全體として到處に現前したまふが、私は汝を見ない。
われは汝のうちに在り、而も汝に達することができない。
汝はわがうちにあり、われを圍んでありたまふが、
私は汝を感知しない。
長沢信寿訳(岩波文庫 1942年1月15日第一刷 1987年11月5日第二刷)
☆
armchair anthroposop @longtonelongton
聖アンセルムス「プロスロギオン 第十五章 神は人が考え得るよりも大であること」。なぜか現代数学の「位相」概念を思わせる。開集合における無限性。近づくことの無限性。(実数の)完備性概念の発見と中世神学における神の完全性概念の近さ。人間の思考・文化が時代を変えて生まれ変わる例か。
armchair anthroposop @longtonelongton
聖アンセルムス「プロスロギオン 第十六章 神が住みたまふところ、それは"近づきがたい光"である」 「近さ、遠さ、無限」の隠喩はあらゆる人間的営みを撃ち落とす神の射撃手である。