ソクラテス自身の意識のなかには、他人の学問は人間にとってなんの役にも立たず、最高の善をなし最高の真を知るためには、みずから道徳の本質を追究するほかないとの思いがありました。この普遍的かつ絶対的なものが、じつは各人の直接の本質にほかならぬことを自覚させたい。それがかれのおしえのねらいです。
これまで客観的に存在するものであった掟や真や善が、ここでは意識へとつきかえされています。が、それはソクラテスという一個人に生じた個別的で偶然的な現象ではない。ソクラテスとかれの現象は概念としてとらえる必要がある。
かれの属するギリシャの民族精神という共同の意識のうちに公的正義から道徳的正義への価値の転換が生じ、かれはこの変化をその頂点において意識することになったのです。
世界精神は、のちに完成を見る方向転換のはじまりに、ここでたちあっているので、そうした視野の広い地点からソクラテスとソクラテスをふくむアテネ国民をとらえなければならない。
意識が自分へと目を向ける反省がここに開始され、意識は自分こそが本質であると知るようになり、ーいうならば、意識と神がともに精神であるということ、もっと大局的に含蓄深くいえば、神が人間の形をとることが知られ始めたのです。世界の本質が抽象的存在であれ思考された存在であれ、もはや存在するものではなくなること、そこにこの時代のはじまりがあります。
しかし、この時代は、秩序意識のつよい民族が最高の文化を謳歌しているまっただなかに、それをおびやかし侵略するとどめようのない破滅としてあらわれます。
というのも、その共同体秩序は、古代民族の秩序が一般にそうであるように、当然のものとして受け入れられる普遍的秩序として存在し、個人が個々の意識においてその正当性を確信する必要のない直接の絶対秩序と見なされているからです。
既製の秩序は、検討吟味されるこなく正当とされ、それを最高のよりどころとして、秩序意識は安定感を得ている。
だが新時代を画する道徳意識は、これが実際本当の掟なのか、という問いを発する。
それはたしかに国の掟であり、神々の意志であるとされている。である以上、それは全体の運命であり、存在の形態をもち、万人に承認されるものだが、存在の形態をもつ一切を抜け出して自分自身に戻ってきた意識は、それは本当にそのような対象であるかを知り了承しようとする、ーつまり、共同体秩序のなかに意識としての自己を見出そうとする。
自己へかえっていくこのような運動にアテネの国民はとらえられていたのです。こうして、既製の掟が不確実なものに思え、ただしいとされたことが動揺し、ーどんな存在や正当性をも疑う最高の自由があらわれる。
(長谷川宏訳)
ヘーゲルも(他の箇所で)指摘しているとおり、ソクラテスの議論は現代人には往々にして退屈である。しかし、その精神と方法は、常に新しい。ここでヘーゲルが描き出すアテネ国民の精神風景は、意識魂(シュタイナー)の胚胎がまさしくギリシャの没落をもたらす状況、精神の革命が既存の体制を破壊して行く過程そのものです。