然れども此等競争を必要とせし時代は既に過ぎ去れり。
今や自由競争は果たして何事を意味する乎、
唯だ少数の横暴に非ずや、
多数人類の苦痛に非ずや、
貧富の懸隔に非ずや、
不断の恐慌に非ずや、
財界の無政府に非ずや。
是れ實に社會の進化に益なきのみならず、
却って其堕落を長ずる者に非ずや。
如此にして吾人は猶ほ其保存を希ふの理由ある乎。
太初蛮野の時に於てや、
暴力の闘争は社會進化の為に其唯一の動機たりき、
而も今日に於ては直ちに一個の罪悪に非ずや。
若し競争は進歩に必要なるが故に、
暴力も之を禁ずるを得ずと言はば、
誰か其無法を笑わざらんや。
今の自由競争を以て必要となすの愚は之に類せずや。
・・・・・・
於是乎生存競争の性質方法は更に一段の進化を経ざることを得ず。
社會主義は實に這個進化の理法を信じて、
社會全體をして此理法に従わしめんと欲す。
然り現時卑陋の競争を變じて高尚の競争たらしめんと欲す、
不公の競争を變じて正義の競争たらしめんと欲す。
換言すれば即ち衣食の競争を去て、
智徳の競争を現ぜんと欲する也。
幸徳秋水「社會主義神髄」第五章 社會主義の効果 より
ここで秋水の述べる「社會主義」は、彼が十七歳で大阪、兆民先生の下に参じて西洋文化に触れる以前、十代前半を過ごした四国、中村で学んでいた、儒教道徳の性格を色濃く反映した独特のものに、既に変じているのではないかと思えるのです。智徳の競争を現ぜんと欲する也! この辺が又、後に秋水がマルキシズムを離れ、アナーキズムに接近する(そうです、まだそこまで読んでいませんが)契機になるのかも知れない。