アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

BC級戦犯の手記を読む。戦後日本に生まれた独特の平和非戦主義がその積極性を未だ発揮できていないことについて。

今、なぜかBC級戦犯の手記を読んでいるのですが、やはり戦争の本質は戦争に負けてみて初めてわかるようです。

・・・私の筆は重くなりがちだ。私が罪を抱いているからだ。あの青年(筆者が銃殺に関与した米人捕虜)が、そしてその他の認別もつかぬ多数の人間が、戦争で殺されたことに対して、私は語るべき言葉を知らぬ。私たちが当時単純に信じていたように、もし日本が勝っていたら、私はこうした悩みは知らなかったことであろう。私たちは自分らの行為の総てを正しいものと是認していたであろう。私たちは日本の勝利、世界の平和のために闘ったと思い込んですましていたことであろう。日本の損害が少なくてすむような、また敵側の損害が少しでもおおきいような総ての行為は、称賛されていたことであろう。しかし、日本は敗れた。そして私は敗者のどん底に突きおとされたおかげで、自己および戦争屋のエゴイズムにはじめて目を開かれたのだ。
           「妻へ」立田修・元陸軍中尉・三十二歳・刑期二十年

敗戦後の日本に生まれた独特の平和非戦主義(それがとくに空気のように行き渡っていること)に関してはもっと考えたい。それは立田修の手記が指摘するように、おそらく戦勝国には芽生えることが難しい思想で、中国にはもちろん、アメリカの一般市民にも未知のものなのでは無いか。しかし、その平和非戦主義が今、目前に迫った安倍自民党の復活によって、危機に瀕している。

特にこの平和非戦主義の積極性が未だ発揮できないことについて。これはアメリカによる戦後日本の植民地的支配が密接に関わる問題でもある。

原子力の社会的な本質の理解に関しても、同様のことが言えるのでは無いかと思った。原子力の問題に関わり、言葉と行為で考え、闘い続けることが、"福島後"の、”原子力戦争に負けた”日本人に与えられた責務なのだと思う。この問題を回避しているいかなる言論も、もはや空しく感じてしまう。