アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

"Das Verhältnis der Anthroposophie zur Naturwissenschaft - Grundlagen und Methoden" "自然科学に対する人智学の関係ー基礎と方法" 序言

序言

 1920年から1922年にかけて、ルドルフ・シュタイナーは場所を移動しながら、一連の公開講演を行ったが、そこでの聴衆は学問的素養のある人たちであった。 当時既に、世間的に受け入れられたある種の学問的グループで、シュタイナーに代表される霊学(精神学)を病的心理現象として誹謗するものが存在していたが、シュタイナーの側では彼等の学問的誠実さを認めていなかったのであった。ベルリンの心理学者マックス・デゾワールのような批判者は、シュタイナーの霊学的探求による成果は心理的な投影以外の何ものでも無いと「病理的超越遊戯」のなかで非難していた(1921年11月2日バーゼルにおける講演)。
  
 遅くとも1911年(明治44年)には既に、シュタイナーはボログナで開催された哲学の学会において、学問的素養のある広範な聴衆に対して、”人智学の認識論的立場”(注1)という発表を行っているが、彼にとっては、彼の探求に対する学問的承認が重要だったのである。ルドルフ・シュタイナーは初めから彼自身が学者であることを自認しており、彼の学問的探求は、その成果が当時の学会の教授たちにはいかに異様に思われたにせよ、詳細に検討してみれば最新の学術的探求として最上の部類に属することは明らかであって、それはまさしく学会的な定義に沿うものであると、自分自身理解していた。くり返しくり返しシュタイナーを襲う頑迷な偏見と、学会聴衆の多数において支配的なシュタイナーと彼の業績に対する誤解が、ますますシュタイナーを苦しめたはずであった。

(注1)
"Die psychologischen Grunden und die erkenntnistheoretische Stellung der Anthroposophie", Autoreferat nach dem Vortrag vom 8. April 1911 auf dem IV. Internationalen Kongress für Philosophie in Bologna. (in GA 35)
人智学の心理学的基礎及びその認識論的位置”, 1911年4月8日、ボログナ、第四回哲学国際会議における研究報告(全集第35巻)

 とりわけ第一次世界大戦後の数年間は、シュタイナーにはまた別の困難な課題が持ち上がっていた。ますます多くの人々が彼の理想に惹かれるようになり、その結果、人智学協会の成長が著しく加速されていたのであった。就中、敗戦、十一月革命の挫折、悪化する経済の不安定化により深刻に動揺するドイツでは、多くの人々が、社会生活を根本的に刷新し、より深い人間と存在の理解に到達することを、渇仰していたのであった。
 
 人智学に殺到する人々は、シュタイナーにとって歓迎すべきで存在であったはずだが、 それはまた更なる一連の危険をはらんでいた。外部に対して人智学を代表しようとする、或いはただ人智学支持を表明しようとする多数の人々が育っていた。彼らは人智学に対して知的な態度を取ってはいたが、いまだ未成熟であった。一方、シュタイナー個人を崇拝するカルト的な傾向も芽生えており、人智創始者(シュタイナー)にとって、それは喜ぶべき事ではなかった。シュタイナーが妻のマリー・フォン・ジーフェルスに宛てた手紙(全集262巻)は、これらの問題が如何ほど彼を悩ませていたかの証拠である。
 
 スイスとライプチヒで行った学問的素地のある聴衆を対象とする講演をまとめて刊行された巻が示しているように、シュタイナーは懐疑論に対して学問の立場から高い水準の客観性と懐疑者たちへの洞察力をもって対処し得ていた。彼は聴衆に対して、一歩一歩丁寧に、人智学的な認識の方法の特徴を紹介していった。シュタイナーにとっては、アカデミックな聴衆に対して、霊学的探求の成果を公表することよりも、霊学の客観的な理解を入門的かつ概念的に透明な形で手ほどきすることの方が、重要であった。霊と魂の世界で自らの位置を知るために必要となる道具、装置とは、どのようなものなのか? 霊界とは客観的に存在する世界であり、決して単なる心理的投影などではないと、どのようにして知ることができるのだろうか? 一体何が、霊的探求者に、”世界のもう一つの面”における彼の経験を、彼から独立した実在性として承認する権利を与えるのだろうか?
 
 以下の講義において、シュタイナーは、上述の問いを含めた問題を、誰にでも理解し易い、徹底して構造化したやり方で追求しており、講演が行われた当時の状況を抜きにしても、堅実な入門的テキストとしてふさわしいものになっている。この講義でルドルフ・シュタイナーが目指した重要な目標を一言で表現すれば、ここで人智学的霊学が、学問的探求方法・学問的探求の実践として認知され、その地歩を固めることに他ならなかった。
 
 刊行された講義録において、いくつかのものでは、ルドルフ・シュタイナーの講義だけではなく、付随して行われた議論も速記されていたことは幸運であった。そのおかげで、ライプツィッヒにおける大学講座で生じた特に長く緊張感のある熱烈な議論同様に、公開講義の多くを支配したと想像できる反応のすべてを反映した雰囲気を感じ取ることは今日でも可能である。アカデミズムを対象にした場合にも同様に、聴衆の反応は共感と徹底的な拒絶の間を揺れ動いていた。ライプツィッヒにおいて、ルドルフ・シュタイナーは彼の研究手法に対して批判的な教授陣と対決したが、彼等はシュタイナーの手法が明確で誤解しようの無いように表現されていることを認識していなかった。
 
 ルドルフ・シュタイナーは、多くの同様の催しものにおいて、上述したような経験をしてきたが、その際、彼は常に客観的かつ特に宥和的な調子で、親身になって対応していた。彼は以下のように述べている。「申し立てられた異議に対して、私が、決して憎しみではなく、むしろ満身の喜びをもって明快に回答してきたことを理解してくださるでしょう。それは、そのようにしか、頑迷な異議を乗り越えて人々が真に人智学に参入するように導くすべがないからなのです」(ライプツイヒ、1922年5月11日における講演)ここでシュタイナーは、伝統的なアカデミズムにおける研究と霊学研究の間の架橋、従来の自然科学・精神科学と人智学によって息を吹き込まれた新たな霊学との間の架橋が存在することを確信し、更に、それらの間の相互理解が必要かつ可能であることを信じていたのである。
                     ウォルフガング・ズムディック

*********

今まで少しずつ訳してきたものをまとめました。まだ、コピー・ペーストしただけなので、日本語としてはこなれていませんが、後で見直したいと思います。ようやく、次回からシュタイナーの講演に入ります。