アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

トーマス・ミュンツアーによる「預言者ダニエルの書第二章の講解」

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キリストの霊ほど卑しめられ、さげすまれているものはないー私はこのことを神に訴えたいー、ということは今や明らかであります。しかしながら、ローマ人への手紙八章、ルカによる福音書十二章、ヨハネによる福音書六章および十七章に書かれているように、何人も、聖霊が彼に前もって彼に救いを保証するので無い限り、救われることはできません。私たち哀れな虫けらどもは、私たちが背神の徒輩の威光をかくも敬い、ために、悲しくも神の優しき御子キリストが、この世の偉大な権勢と名声の前に、案山子か絵に画いた小人のように見えるほどであるのに、どうして救いに至ることを望み得ましょうか。しかし、キリストはやはり、此の世の華々しいきらびやかさを滅ぼすために、巨大な山から海へ投じられる真の石であります(詩篇四六篇)。

彼は、人手によらないで巨大な山からもぎ取られた石であり、イエス・キリストと呼ばれ(コリント人への第一の手紙十章)、ちょうど奴隷制が広く行われていた時代、すなわちオクタヴィアヌスの時代に生まれました(ルカによる福音書第一章、第二章)。当時は全世界が動いており、課税のために人口調査を受けました。当時、霊における無能者、あさましい穢れ者(ローマ皇帝アウグストゥスオクタヴィアヌスをさす)が、全世界をわがものにしようとしました。しかも、全世界は彼にとって、虚飾と虚栄にのみ役立つものでありました。実際彼は、自分のみが偉大だとうぬぼれていたのです。

その当時、礎石であるイエス・キリストは、人間どもの眼にいかに小さく映ったことでしょうか。彼は人間の屑の如く、厩に追いやられました(詩篇二二編)。その後、聖書学者どもが彼を捨てました(詩篇一一八篇、マタイによる福音書第二一章、ルカによる福音書二十章)。それと同じように、今日でも聖書学者どもはつねにキリストを捨てています。実際、まことに、彼等は、愛する使徒達の弟子たちの死後、ついにはキリストの霊をももの笑いの種となし、今日もなおそうしています。彼等が、泥棒や人殺しのように、キリストの霊を盗み取ったことは全く明らかです(ヨハネによる福音書十章)彼等は、キリストの羊から正しい声を奪い、十字架につけられた真のキリストを、純然たるまやかしの偶像に仕立て上げました。

どうしてこのような事態が起こったか。其の答は、ホセアが第四章で明確に言っているように、彼等は神の純粋な認識を捨て、美しく優雅な金色の神の像をもって神に代えた。そして哀れな農民どもはその前で満足そうに鼻を鳴らし、舌鼓を打っている、ということであります。エレミヤも哀歌の第四章で、「かつて香料の利いたごちそうを食べていたものが、今ではその代わりに糞土で済ませている」と言っています。キリストが自ら述べておられる、いたましくも忌まわしいこの事態(マタイによる福音書二四章)、即ち、キリストが、悪魔の編み出したミサ奉献とか、神に背く説教や儀式や行状によって、かくもみじめにあざけられ、あげくの果てに、木で作られた空しい神像のほかは何も無い、と言う事態は何と悲しいことでしょう。

神に背く坊主と、神についていささかの見解ももつことができない蒙昧で愚鈍な民、これが悲惨と罪業と恥辱でなくて何でありましょうか。

私は本当に、自分の腹だけを崇拝するけだものども(ピリピ人への手紙三章)や、マタイによる福音書七章、ペテロの第二の手紙二章に記されている豚どもが、宝石であるイエス・キリストを、力の及ぶ限り、踏みにじり尽くした、と信じます。

こうしてキリストは、全世界が足の汚れを拭う雑巾になってしまったのです。

それだから、キリストを信じないトルコ人や異教徒やユダヤ人が私たちを嘲り、馬鹿者と蔑むのは当然至極のことであります。

自分たちの信仰の真の精神が表明されるのを聞こうとしない狂った人間どもは、そのように評価されてしかるべきであります。

そのために、キリストの苦難は、救いようのないいかさま師どもの間では、傭兵すら見向きもしたことがない、年の市での下劣な楽しみにほかなりません。このことは、詩篇六九にも述べられています。

「トーマス・ミュンツアー ードイツ農民戦争と革命の神学ー」
    マンフレート・ベンジング 田中真造訳(未来社・1981年改訳版第一刷)

ミュンツアーの時代認識は、基督教の枠組みを敷衍しさえすれば、そのまま現代の日本にも通用する。ミュンツアーの憤激は、そのまま、われらの憤激以外のなにものでもない! そう感じられない人は、ミュンツアーのキリストを、生命、精神に置き換えてみるだけで十分だ。黄金の神(貨幣)を崇拝し人民を搾取する坊主・マタイ伝の豚ども=経団連・経済人・霞ヶ関官僚、背神の聖書学者ども=御用学者、と考えれば、ドイツ農民戦争の時代がそう遠いものとは思えなくなる。見かけは変わったが、本質は同じではないか! ついでに言えば、二世三世世襲議員=当時の諸侯・貴族の関係か。

聖書に通暁する神学者としてのミュンツアーにとって、時代を通底する社会の堕落の構造を見通すことは容易だった。それは、旧約の時代、福音書の時代に預言され記され、そして彼の生きた中世末期を通して、目の前の現実認識として深められ、彼の行為の揺るぎない根拠となった。

その意味で、彼の剣と大砲には迷いがなかった。

Nakamichi51@神道学者 ‏@genshin01
伊勢神道の五部書に見える「心神」。これはつまり、私たちのうちに神がいらっしゃる…ということを指す言葉。そして、その状態を偽ることなく、曲げることなく生きることを「正直」といいます。現代で言うところの正直と、意味が違っているところに注意です。

上の神道学者の方のツイートを読むと、結局、神道も、基督教もその主張の本質は同じではないかと思う。ミュンツアーの闘いに相当する二十一世紀における日本人の闘いとは何か。