アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

大日本三千年紀研究會のためのメモ:プロレタリアート革命によって初めて自己活動は物質的生活と合致する(マルクス)

これらの生産諸力の獲得は、それ自体、物質的生産諸用具に対応する個人的諸能力の総体の発展である。

この獲得は、さらに、獲得する諸個人によって制約されている。

ただ一切の自己活動から排除されている現代のプロレタリアだけが、生産諸力の総体の獲得と、それと結合された諸能力の総体の発展において成り立つところの、彼らの完全な、もはや局限されてはいない自己活動を、実現しうるのである。

以前のすべての革命的な獲得は、局限されたものだった。

即ち、制限された生産用具と制限された交通とによってその自己活動を局限されていた諸個人が、この制限された生産用具を我がものにしたのであり、したがって一つの新たな被制限性に到達したに過ぎなかったのである。

彼らの生産用具は彼らの所有となったが、彼ら自身は相変わらず分業と彼ら自身の生産用具のもとに従属させられたままだった。

すべての従来の獲得においては、一団の諸個人がただ一つの生産用具のもとに従属させられたままだった。 

プロレタリアの行う獲得においては、一段の生産用具が各個人に、そして所有が万人に、従属させられねばならない。

近代的世界的交通は、それが万人に従属させられることによるほかには、決して諸個人に従属させられ得ないのである。

−獲得は、さらに、獲得が遂行されるべき仕方によって、制約されている。それは、ただ団結と革命によってのみ遂行されうる。

そして、この団結は、プロレタリアート自身の性格によって、やはり一つの世界的な団結でしかあり得ない。

そして又、この革命においては、一方では、従来の生産・交通様式と社会的編成との力が転覆されるとともに、他方では、プロレタリアートの世界的性格と獲得の遂行に必要なそのエネルギーとが発展し、さらに、プロレタリアートは、その従来の社会的地位から自己に残存している一切のものを、かなぐり捨てるのである。

この段階において初めて、自己活動は物質的生活と合致する。

そして、このことは、諸個人の全体的諸個人への発展と一切の自然発生性の脱却とに対応するものである。

労働が自己活動に転化されることと、従来の制約された交通が諸個人としての諸個人の交通に転化される事とは、互いに対応する。

団結した諸個人による生産諸力全体の獲得と共に、私的所有は無くなる。

従来の歴史においては、常に、ある特殊な条件が偶然的として現れたのであるが、今では、諸個人の分離そのものが、各人の特殊な私的営業そのものが、偶然となっているのである。

 カール・マルクスフォイエルバッハ「ドイッチェ・イデオロギー」第一部 ー唯物論的見解と観念論的見解との対立ー B イデオロギーの現実的基礎 3.自然発生的および文明的諸生産用具と諸所有形態: 岡崎次郎訳(河出書房・世界大思想全集・昭和二十九年発行)より
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「ただ一切の自己活動から排除されている現代のプロレタリアだけが、生産諸力の総体の獲得と、それと結合された諸能力の総体の発展において成り立つところの、彼らの完全な、もはや局限されてはいない自己活動を、実現しうるのである。」ここは痺れますね。選ばれた民としてのプロレタリアート千年王国思想との関連が指摘されるようです。その辺は、エンゲルス「原始基督教史考」を読んで考えたい。マルクスにせよ、エンゲルスにせよ、当然ですが、基督教の歴史を抜きにはその出現は考えられません。

「プロレタリアの行う獲得においては、一段の生産用具が各個人に、そして所有が万人に、従属させられねばならない。」ノーマン・コーン「千年王国の追求」に詳述されているように、あらゆる私有の廃止、財産の共有は、実際に、中世の異端的基督教徒たちが、その叛乱・共同体において実践している。教会から聖書を奪い返した民衆は、その根拠を使徒達の教えに発見していた。マルクスの新しさは、その問題を生産用具に発見したところなのか。「以前のすべての革命的な獲得は、局限されたものだった。・・・彼らの生産用具は彼らの所有となったが、彼ら自身は相変わらず分業と彼ら自身の生産用具のもとに従属させられたままだった。」ここは、読み過ごしそうになりますが、意味深長です。プロレタリアート革命によって生産用具を万人の所有にすることのみが、個人が生産用具に従属させられていたかつての状況から個人を解放する、という風にも読める。しかし、その具体的な意味はまだ良く分かりません。

「獲得は、・・・ただ団結と革命によってのみ遂行されうる。」
「この団結は、プロレタリアート自身の性格によって、やはり一つの世界的な団結でしかあり得ない。」
「この革命においては、一方では、従来の生産・交通様式と社会的編成との力が転覆されるとともに、他方では、プロレタリアートの世界的性格と獲得の遂行に必要なそのエネルギーとが発展し、さらに、プロレタリアートは、その従来の社会的地位から自己に残存している一切のものを、かなぐり捨てるのである。」

生産手段を奪い取ることが革命の本義であり、そのための団結は、プロレタリアートの世界性から導かれるように世界的な団結である。
革命は、従来の生産・交通様式と社会的編成との力を転覆させる!

「この段階において初めて、自己活動は物質的生活と合致する。」

「労働が自己活動に転化されることと、従来の制約された交通が諸個人としての諸個人の交通に転化される事とは、互いに対応する。」

「団結した諸個人による生産諸力全体の獲得と共に、私的所有は無くなる。」

ここまで読んできての感想です。
マルクスの認識する労働者の人間的生の不可能性には、同時代的な共感さえ感じることができる。一方、彼が提示する共産主義的プランの導入自体には、数学で言う「天下り」感が否めない。むしろ、その情熱がどこから来るのかに興味を持ってしまいます。先ほど述べたように、ヨーロッパの歴史の中では、決して孤立した真に新しい発想ではないという気もします。そして、果たして「自己活動が物質活動と合致する」ことが、理想社会の実現につながるのか、怪しく思うほかにありません。

少しづつ勉強して行きます。