アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

大日本三千年紀研究會のためのメモ:自己活動と物質的生活のための生産の分裂の結果としての労働(マルクス)

それでもなお彼らと生産諸力および彼ら自身の存在との間に存する唯一の関連、すなわち労働は、彼らにあっては自己活動の一切の外観を失ってしまい、ただ彼らの生活を萎縮することによってのみ彼らの生活を維持する。

以前の諸時代には、自己活動と、物質的生活の生産とは、それぞれが別々の人間に属していたことによって分離されていたのであり、

そして、物質的生活の生産は、諸個人そのものの被局限性のゆえに、なお自己活動の従属的な一様式と見なされたのであるが、

今ではこの二つのものが全く別々になっていて、一般に物質的生活は目的として現れ、この物質的生活の生産、すなわち労働(それは今では自己活動の唯一の可能な形態であるが、しかし、我々の見るように、その消極的な形態である)は手段として現れる、

というふうになっているのである。

 カール・マルクスフォイエルバッハ「ドイッチェ・イデオロギー」第一部 ー唯物論的見解と観念論的見解との対立ー B イデオロギーの現実的基礎 3.自然発生的および文明的諸生産用具と諸所有形態: 岡崎次郎訳(河出書房・世界大思想全集・昭和二十九年発行)より
______________________________

この辺は、訳も悪い(?)のか、分かりにくいです。むしろ、どんどん先に進んだ方が良さそうだ。

「以前の諸時代には、自己活動と、物質的生活の生産とは、それぞれが別々の人間に属していたことによって分離されていたのであり」の意味するものは? 貴族・諸侯・坊主=支配階級(自己活動)と農奴・隷農(物質的生活の生産)と言う意味だろうか。

プロレタリアートにとっての労働(=生産諸力と彼ら自身の間に存する唯一の関連)から、一切の「自己活動=主体的な個人の活動」としての側面が奪い去られているという認識は、納得できます。

物質的生活=目的、物質的生活の生産としての労働=手段、という「自己活動の分裂/剥奪状態」。

これらの認識が、プロレタリアートによる革命の必然性を導き出すための重要な前提になっているようです。

そのように読むと、次に出てくる革命のアイデアが、プロレタリアート人間性回復のための試みとしても読み取れる。