アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

大日本三千年紀研究會のためのメモ マルクスの階級論・人格的発展が階級の下に従属させられる

・ ・・同じ諸条件、同じ対立、同じ利害関係は、大体においてどこでも同じ風習を生ぜしめざるを得なかった。ブルジョアジーそのものは、その諸条件と共に初めて徐々に発展し、分業にしたがって、再び種々の分派に分裂し、そして最後に、一切の既存の所有が産業資本または商業資本に転化される程度に応じて、一切の既存の有産階級を自己のうちに吸収する(他面、それは、既存の無産階級の大部分と従来の有産階級の一部分とを、新たな一階級に、すなわちプロレタリアートに、発展させる)。

個々の個人は、彼らが他の一階級にたいして共同の闘争を遂行せねばならない限りにおいてのみ、一つの階級を形成する。その他の場合には、彼らは闘争において相互に敵対的に対立する。

他面では、階級は再び諸個人に対して独立化され、その結果、諸個人は彼らの生活条件を予定されたものとして見出し、階級によって彼らの生活態度を、したがってまた人格的発展をも、指定されたものとして受け取り、階級のもとに従属させられることになる。

このことは、分業への個々の個人の従属と同じ現象であって、私的所有と労働そのものとの止揚によってのみ、除去されうるものである。

かような、諸個人の階級への従属が、いかに同時に各種の観念等々への従属に発展するか、それは、すでに我々が何度も暗示したところである。

  フォイエルバッハ(「ドイッチェ・イデオロギー」第一部)ー唯物論的見解と観念論的見解との対立ー 岡崎次郎訳(河出書房・世界大思想全集・昭和二十九年発行)より

ここで、共産主義のアイデアが出てくるようです。階級に従属させられた個人の人格的発展、「魂」(とは当然言わないけれど)を救済する唯一の手段として、「私的所有と労働そのものとの止揚(しよう)」があらわれてくるようです。ここが、シュタイナーの社会論とは異なる分岐点の一つかも知れません。少しづつ研究して行きます。