・・・・かくて、かような、歴史の世界史への転化は、決して「自己意識」とか世界精神とかその他何らかの形而上学的な幽霊の単なる抽象的行為なのではなく、全く物質的な、経験的に証明されうる行為なのであり、歩き、立ち、食い、飲み、着る各個人が身をもって立証する行為なのである、ということが結論される。
支配階級の思想は、どの時代にも支配的な思想である。
すなわち、社会の支配的な物質的な力である階級は、同時に社会の支配的な精神的な力でもある。
物質的生産の手段を支配している階級は、それと同時に精神的生産の手段をも自由に処理し、したがって、精神的生産の手段を欠く階級の思想は、概して支配階級に従属させられている。
支配的な思想は、支配的な物質的諸関係の観念的表現、思想として捉えられた支配的な物質的諸関係以上の何ものでもない。したがって、まさにこの一階級を支配階級となす諸関係の表現、したがってこの階級の思想以外の何ものでもない。
フォイエルバッハ(「ドイッチェ・イデオロギー」第一部)ー唯物論的見解と観念論的見解との対立ー 岡崎次郎訳(河出書房・世界大思想全集・昭和二十九年発行)より
マルクスの哲学的立場が、身も蓋もない形で提示されています。人智学の立場とは、当然異なるのですが、人類が、一度は、このような認識の立場を獲得することの必要性も、読んでいて痛いほど伝わってきます。あらゆるメディアを通じて人々を洗脳し、その精神を支配しようとする「新自由主義・グローバリズム」の圧政の下にある、今の日本人にこそ、痛切に体感できる主張でもある。
シュタイナーは、歴史的過去は一切否定しない。現在を批判する。その意味、こころ、は、私には、よく理解できる。
マルクスの文体は、読んでいて、力強く、痛快です。今、同時に、黒田喜夫の詩、例えば詩集「不安と遊撃」、昨日までは、「地中の武器」を読んでいたのです。黒田喜夫にとっての主題は、「詩と革命」だった。私の勉強の課題は、実は「神秘と革命」なのです。神秘主義者ほど、おそろしい革命的個人はありません。
「すなわち、社会の支配的な物質的な力である階級は、同時に社会の支配的な精神的な力でもある。」という一行に込められたリアリズムは、実は「あらゆる闘争は霊的闘争である」という神秘学的テーゼ(私が勝手に主張しているだけですが)にも呼応している。マルクスを裏からながめる事も出来ます。なまいきで申し訳ないが、霊学は、畢竟、マルクスをも包括してしまうでしょう。