アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

野村英夫の詩の世界 大日本三千年紀研究會のためのコラージュ集14

 花嫁の冠は

明るい歌声のやうにさざめいていた
花嫁の冠はもう取られただらうか?
さうして人生の悲しみも
もう一つ位は見知っただらうか?
たとえば愛する者の心を見失いかけたとか
幼い者の病むさまとか
時には神様が
それらの者をお召しにさえならうとしたとか。
さうしてもう気附いただらうか?
墓地のたくさんの十字架の下には
見捨てられた不幸せな魂も
眠っていることを。
かつて愛したものの幸せかどうかと問ふ
それらの死者達の問ひたげな眼なざしを。

 この詩が書かれたのが、戦時中か、それとも戦後まもなくなのか、分かりませんが、詩の主題が、当時の特殊な苦難を越えた、汎人間的なものであることはたしかです。そしてこのような詩が、今後この日本で書かれ得るかどうかと考えるとき、はなはだ心許ない気持ちがするのです。

 それは、このような静謐な思索の時、自己に沈潜する時を、私たちが放棄しているから。生活の形が、そのような生の寂しさ、沈黙に堪えきれず、絶えず何かに繋がろうとする、弱さに基づいているから。一見、弱々しい印象を与えるかも知れない野村英夫の詩の世界だが、魂の力を発揮しているのは野村の方で、騒がしく、賑やかな、沈黙に堪えきれないわれらの生活の方が、実は、疲労困憊し、生命の枯渇にあえいでいる。

 生活に欠かせない電気とお金。特にお金の刻印がすべてのものに押された世界は、実は黙示録的な世界なのではないか。戦争末期と戦後まもなく、お金が意味を持たなくなる一時期があった。物々交換でしか、食糧が手に入らない時期もあった。それは困った事態ではありますが、同時に、お金の刻印の無い世界もつかのま実現したのかも知れない。今の日本では、文学も、音楽も、お金の刻印が押されていなければ、意味が無いと、人々は思い込んではいないだろうか。思い込まされていないだろうか。お金の意味と、あり方を変える事が、実は精神の世界を取り戻すことに繋がって行く。