人間の頭脳における諸幻像も又、彼らの物質的な、経験的に確認されうる、そして物質的諸前提に結びつけられた生活過程の必然的昇華物なのである。
かくて、道徳、宗教、形而上学その他のイデオロギー、およびこれらのものに対応する諸意識形態は、もはや独立のものという概観を保持しない。
これらのものは何らの歴史をもたず、何らの発展をもたず、むしろ、自己の物質的生産と物質的交通とを発展させる人間が、この彼らの現実とともに彼らの思考および思考の諸産物をも変化させるのである。
意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定するのである。
第一の見方では、意識を生きた個人として、そこから出発するのであるが、第二の、現実の生活に対応する見方では、現実の生きた諸個人そのものから出発して、意識を、ただかような諸個人の意識としてのみ考察するのである。
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かくて、思弁のやむところ、現実の生活において、現実的な、実証的な科学が始まり、人間の実践活動の、実践的発展過程の、記述が始まる。
意識についての空論はなくなり、現実的知識がこれに代わらねばならない。